●第二帝政 だいにていせい
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ルイ=ナポレオンが皇帝に就任した日(1852年12月2日)から,普仏戦争で敗れて退位する(1870年9月4日)までの政治体制。第二共和政末の1851年,クーデタで大統領権限を強化したルイ=ナポレオンは〈帝政とは平和のこと〉と説き農民の支持を集め,翌年12月に,元老院決議で提起させた帝制を人民投票にかけ,783万票対25万票という圧倒的多数で承認され,帝位につく。皇帝としてのナポレオン3世は行政・軍事・外交の全権を掌握,県知事をはじめあらゆる官職を任命制にした。知事は小型の皇帝と呼ばれ地方行政を統轄。立法も皇帝が任命する国事院が起草し発案権は政府に属した。このような皇帝専制を人民投票で権威づけ,また普通選挙制をとりながら官選候補制度で立法院を制した。時期的には,この権威的体制が堅持された1860年までの専制帝政と,議会制を少し回復した自由帝政にわかれる。前者では,サン=シモン主義者の献策をいれ,クレディ=モビリエの創設など信用の拡大と,鉄道の普及・貿易の拡大が図られた。労働による貧困の絶滅を唱え,罷業権は禁止したが,雇用を促進した。1855年,67年のパリ万国博覧会は経済繁栄を象徴。外交的にも民族運動援助を掲げて積極策をとり,トルコ領内のカトリック教徒保護を口実にロシアと,イタリア統一を援助してオーストリアと戦ったが,イギリスとは友好関係を維持しようとつとめた。一部工業家層の反対をおして英仏通商条約を締結(1860)したのもその現れ。イタリア政策に国内カトリック勢力の反対がではじめたころより自由帝政に移行。立法院に請願権を与えたのが呼び水となり,共和派の圧力で団結権・罷業権,出版と結社の自由を認めた。1869年の議会選挙では共和派などの反対勢力は45%の得票に達した。国威発揚外交は皇妃の催促もあり,普仏戦争にいきつくが,惨敗。退位して第二帝政は幕をとじた。海外遠征の成果は,セネガル開港(1854)・広州占領(1858)・コーチシナ征服(1859〜67)・レバノン占領(1860)があり,レセップスのスエズ運河建設も国策に沿ったものであった。第二帝政は〈人民的中道主義(デュベルジェ)〉で第二共和政の内部矛盾を克服し,産業化とデモクラシーに一定の解決を与えたが,資本主義の発展に伴い,成長したブルジョワジーの議会制度に道をゆずった。