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●第2次日韓協約(保護条約) だいにじにっかんきょうやく(ほごじょうやく)

アジア 日本 AD1905 明治時代

 1905年(明治38)11月17日,朝鮮を武力占領した日本が,朝鮮をその保護国にするために,朝鮮封建政府を脅迫し朝鮮の外交権をうばって国の自主権をふみにじった亡国条約をいう。1904年(明治37)2月,日本帝国主義は朝鮮政府の局外中立宣言を無視して朝鮮に侵入し,朝鮮における日本軍の軍事行動と軍事基地設置の自由を認めさせた,第1次日韓協約(一名「日韓議定書」)をおしつけた。この次に締結されたことで,この名称がついたが,別名としては「乙巳(いつみ)保護条約」がある。この第2次日韓協約は,実は第1次日韓協約締結のころから着々と準備されていたものである。すなわち1904年5月,日本政府は〈韓国ニ対シ政治上及軍事上ニ於テ保護ノ実権ヲ収メ経済上ニ於テ益々我利権ノ発展ヲ図ル〉という「帝国ノ対韓方針」なるものを決定した。ついで「対韓施設綱領」では,この基本方針を具体化して,軍事・財政・外交・交通・通信機関の掌握から産業の支配にいたる,全面的な朝鮮侵略の方針を決定した。この大方針のもとに伊藤博文が特派大使となって朝鮮に乗りこみ,日露戦争に勝った余勢で,朝鮮完全支配のための保護条約をおしつけた。これが「第2次日韓協約」である。その日ソウルの王宮のまわりは,武装した日本軍がとりまき,市街の要所要所には,野砲・機関銃をそなえた部隊が配置され,王宮のなかまで日本軍が侵入していた。こうした武力弾圧のもとで憲兵に護衛された伊藤が王宮の会議場に長谷川好道大将をつれて現れ,朝鮮政府閣僚の一人一人に協約に対する賛否をたずねた。参政大臣(首相)と,度支部大臣(財務相)が反対し,ほかは強迫に屈した。卒倒した首相ぬきで不法に協約を成立させた。協約の前文には〈韓国ノ富強ノ実ヲ認ムルノ時ニ至ル迄此目的ヲ以テ〉この条約を結ぶとなっているが,実は朝鮮を完全植民地にするまで「保護国」にするものである。〈日本国政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓国ノ外国ニ対スル関係及事務ヲ監理指揮スベク〉(第1条),〈韓国政府ハ今後日本国政府ノ仲介ニ由ラズシテ国際的性格ヲ有スル何等ノ条約若シクハ約束ヲセザルコト〉(第2条)を規定している。さらに「統監府」をおき「統監」をして朝鮮外交を〈管理〉させることと,開港場やそのほかの要所に日本の「理事官」を置くこと(第3条)を規定している。この条約の成立によって,朝鮮は日本帝国主義の実質的な植民地となった。条約に反対しなかった5名の閣僚が「乙巳五賊」と呼ばれるのもそのためである。この協約をアメリカ・イギリスは支持したが,朝鮮民衆は決死的に反対した。日本の推薦した韓国外交顧問スチーブンが,サンフランシスコで朝鮮人の田明雲・張仁煥から撃たれて死に,伊藤博文安重根に暗殺された。多くの愛国者は銃をとって「義兵闘挙」という武装闘争を展開した。

〔参考文献〕山辺健太郎『日本の韓国併合』1970,太平出版社