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第二次世界大戦 だいにじせかいたいせん

【大戦の終結】[1]ヤルタ会談第三帝国の壊滅 1944年中に国土を奪回したソ連軍は,ポーランドやドイツ東部に進出するとともに,バルカン方面でも9月のルーマニアとブルガリアの降伏のあと,ソ連軍はユーゴスラヴィアに入ったが,同国では共産党のティトーの率いる人民軍がすでに掌握していた。 テヘラン会談後,ドイツの支配を解放した広大なソ連軍の進出地域の将来について,連合国間の調整が緊急に必要となった。1944年10月に訪ソしたチャーチルは,バルカン諸国での米−英側とソ連側の勢力関係の比率をスターリンとのあいだで取り決めようとしたが,ルーズヴェルトはその方策よりも,むしろ大戦終結前に国際連合をスタートさせて,ソ連の大国としての地位や発言権を保証し,それによってソ連の東南ヨーロッパを初めとする要求に節度のある態度を期待するほうがよいと考えた。1945年2月4日から11日までクリミア半島で開かれたヤルタ会談は,このような背景をもつテヘラン会談につづく2回目のルーズヴェルト・チャーチル・スターリンの三巨頭会談である。この会談で,[a]国際連合設立のための国際会議を4月に招集することが決まったが,[b]ドイツ・ポーランドの国境問題や新生ポーランド政権を,米・英の支持するロンドン亡命政権と,ソ連の支持するルブリン委員会のいずれを主体として再建すべきかの問題では激論が交わされた。その結論として,速やかに自由選挙によってポーランド政権を樹立すると決まったが,“自由選挙”は種々の解釈を可能とする表現で,スターリンの断固たる決意の前に,西側はやがて譲歩を余儀なくされることになる。さらに,[c]ドイツ降伏後,2,3カ月以内のソ連の対日参戦を決めたが,その代償としてソ連は満州における諸権益・南樺太の返還・千島列島の割譲について密約を結んだ。

 ヤルタ協定に対して,第二次世界大戦後のアメリカで,ソ連に譲歩しすぎたというルーズヴェルト外交に対する非難が高まった。だが,ヤルタ会談当時は,アメリカの軍部は来たるべき日本本土作戦に伴うアメリカ軍の損失を深刻に憂慮しており,また,ソ連の国際連合設立への協力や蒋介石政権支持への期待があって,ルーズヴェルトとしては,対ソ友好関係の維持を何よりも必要と感じていた,と考えられる。このように米−ソ協調の上に再編成された国際秩序は,ヤルタ体制と呼ばれるが,その後まもなく,4月12日のルーズヴェルトの急逝を契機として,後継者H.トルーマン大統領のポーランド政策をめぐる米−ソ対立が顕在化し,やがて冷戦時代に移行していくことになる。

 一方,1945年に入り,ソ連軍は2月13日にハンガリーの首都ブダペストに進駐し,4月13日にはオーストリアの首都ウィーンを落としたが,ポーランド問題では,ソ連はロンドン亡命政権を反ソ勢力とみなし,1944年7月以来ルブリンに臨時政権を樹立して対抗させた。それゆえ,同年8月の首都ワルシャワでのポーランド人の武装蜂起をソ連軍は援助しなかった。1945年1月17日,ソ連軍はワルシャワに進駐,4月25日には,エルべ川のトルゴウでアメリカ軍と相会し,劇的に交歓した。

 4月16日,ジューコフの率いるソ連軍は,オーデル=ナイセの線からドイツの首都ベルリンへの総攻撃を開始,30日のヒトラーの自殺のあと,5月2日に市街戦は終結,ヒトラーによって後継総統に指令された海軍元帥 K.デーニッツは全ドイツ軍に無条件降伏を下令,5月7日のランス,および5月8日のベルリンで行われた連合国への無条件降伏文書の署名とともに,第三帝国は壊滅した。

 [2]戦争終結への日本の模索 1945年3月17日,硫黄島日本軍守備隊の玉砕,3月9〜10日,東京大空襲,4月1日,アメリカ軍の沖縄上陸というように,日本も最悪の状況に追い詰められていたとき,4月5日,モスクワではモロトフ外相が佐藤尚武駐ソ大使にむかって,日ソ中立条約不更新を通告してきた。同じ5日,小磯内閣は対中国和平工作の繆斌工作をめぐる閣内対立に加えて,小磯首相の陸相兼任問題の頓挫とともに瓦解,後継内閣の首班として,海軍大将・侍従長・枢密院議長の経歴をもつ鈴木貫太郎が推され,7日に鈴木内閣が成立した。

 日本の戦争終結の実現にあたって,直面した難関は三つあった。第1は,連合国の無条件降伏政策である。この方針は,最初,1943年1月24日,カサブランカ会談での記者会見の際,ルーズヴェルトの発表したもので,その後同年11月末にテヘラン会談で連合国の基本方針として確認されたが,それに対しては徹底抗戦のほかはないというのが,当時の日本軍部の心情であった。第2は,日本の国制にかかわる問題である。帝国憲法下の日本では,軍部は統帥権の独立を保証されていた上に,1936年の二・二六事件のあとに成立した広田弘毅内閣以来,軍部大臣現役武官制が制度化されていた。そこで,戦争の終結は軍部の合意なしには到底実現しえないものであり,鈴木首相の苦心はここにあった。第3は,クーデタによる政府要人暗殺の懸念が絶えなかったことである。鈴木首相を倒して主戦派の指導者を内閣首班に据え,徹底抗戦を継続するという懸念があった。にもかかわらず,ドイツの無条件降伏後,日本にも終戦工作着手の機運が醸成された。5月11,12,14日の3回にわたり,鈴木首相・東郷茂徳外相・阿南陸相・米内光政海相・梅津美治郎・及川軍指令部総長の六号会談が開催され,鈴木首相によるソ連に講和の仲介を依頼するという提議は合意を得たので,早速,東郷外相は元首相広田弘毅に依頼し,6月3日から駐日大使マリクとの会談を開始させた。

 [3]アメリカの対日戦争終結政策 ヨーロッパに戦火が消えたあと,アメリカは孤立無援の戦いをつづけている日本との戦争の終結をいかにして実現していくべきかを模索していた。その一つは,5月25日に統合参謀本部の決定した総攻撃による方法である。それによると,1945年11月1日を目途として九州に上陸作戦を展開する通称“オリンピック作戦”と呼ばれるもので,この作戦計画は6月18日に最高軍事会議を招集したトルーマン大統領によって承認された。

 だが,この侵攻作戦の実施に伴うアメリカ軍の人命のおびただしい損失を憂慮し,早期終戦を実現する別のアイデアを提議したのは国務次官J.グルーであった。グルーは真珠湾攻撃までの10年間駐日大使の職にあった知日派で,天皇制の存続を許すことをあらかじめ公約し,天皇自らが日本軍の降伏を命令すれば,最小限の犠牲で戦争を終結することが可能と信じており,これが第2の誘導という方法で,5月28日,グルーは自ら対日宣言文案をまとめてトルーマンに提示した。グルーの見解は,海軍長官フォレスタルや陸軍長官H.スティムソンの支持を受け,とくにスティムソンは7月2日に,二重の性格をもった対日政策に関する覚書をトルーマンに提出した。その内容は,現皇室による立憲君主政体の存続を明示して日本に希望を約束する一方で,もし日本が抗戦を継続するならば,最悪の破壊に追い込まれることを警告している。しかし,トルーマンの選択した方針は,原子爆弾の使用という第3の衝撃的な方法であった。

 原爆の開発を決めたのはルーズヴェルト大統領で,すべてをスティムソン陸軍長官に委ねたが,1942年8月17日以来総司令官L.R.グローヴズ少将の指揮のもとに,国家の総力をあげ研究が開始された。この計画は,担当した陸軍工兵隊のセンターがニューヨーク市のマンハッタン地区にあったので,“マンハッタン計画”という暗号名で呼ばれた。1944年9月19日,原子力問題に関する最も重要な決定が下された。この日,ニューヨーク市の北にあるハイド=パークの自宅にルーズヴェルトはチャーチルを招き,ソ連を排除して原爆の機密を保持することと,対日戦争に原爆を使用することを内容とする,いわゆるハイド=パーク覚書を交換した。

 1945年4月25日,トルーマンはスティムソン陸軍長官から4カ月以内に原爆の完成する予定を知らされ,原爆の力を背景とする外交によりソ連を抑止できる自信をもった。トルーマンは早速ドイツ降伏後まもなく,5月12日にソ連に対する武器貸与法適用の打ち切りを宣言した。スティムソンはトルーマンに進言し,暫定委員会と呼ばれる原爆問題の審議会を組織した。同委員会は6月1日に対日原爆投下に関し,民間をも目標に含む無警告早期使用の勧告案を採択し,6月6日にこの勧告をトルーマンに伝達した。

 [4]ポツダム宣言の受諾 7月17日からトルーマンチャーチル・スターリンの三巨頭会談が,ベルリン郊外のポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮で開かれ,チャーチルは中途で,本国の政変のため労働党首領のC.アトリーと交代したが,8月2日にドイツの管理・賠償・戦争犯罪人の処罰や,ポーランド問題など広範な討議事項の決定を要約した15項のコミュニケを採択して終了する。その間7月26日に,アメリカ・イギリス・中国の3国による共同宣言の形式をとってポツダム宣言が発表された。日本はこの降伏勧告の即時受諾を必要としていた。というのは,トルーマン原爆の投下命令をポツダム宣言よりも1日早い25日にすでに下令していたからである。にもかかわらず,鈴木首相は軍部の要求を尊重する態度を示すことを余儀なくされ,ポツダム宣言を黙殺すると発言し,この情報を30日のニューヨーク=タイムズ紙は,〈日本,連合国の降伏最後通牒を公式に拒絶〉という見出しのもとに報じた。そこでアメリカは,ポツダム宣言拒絶を口実として利用し,8月6日,広島に最初の原爆投下を実施した。8日,モスクワでは,モロトフ外相が佐藤尚武大使を介して日本に対し宣戦を布告した。9日,長崎に第2の原爆が投下された。ここにいたり,日本の主戦派の発言力は低下し,10日午前2時,最高戦争指導会議の席上で,天皇がポツダム宣言受諾の断を下し,即刻この決定が連合国に通告された。

 それを受け,10日に開かれたアメリカ首脳部の会談では,天皇制の存続をめぐり激論が交わされ,スティムソンは,統合幕僚会議議長リーヒとともに条件づきで早期妥協を主張したが,国務長官バーンズは反日的世論を重視し,無条件降伏の原則の堅持を主張した。結局,トルーマンはフォレスタル海軍長官の妥協案を容れ,一方で,〈天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍司令官のもとに隷属する〉という厳しい表現で,どこまでも無条件降伏要求の印象をアメリカ国民に与えるとともに,他方で,〈日本の最終的な政治形態がポツダム宣言に従い,日本国民の自由に表明された意志によって樹立されるべきものである〉と表現し,日本に対して,天皇の権限の留保は,一時的なものであると印象づける回答案の作成を許可した。

 これが8月12日のバーンズ回答であり,日本側ではこの回答案に反対もあった。だが,天皇の決断は変わらず,14日午前10時50分の御前会議で再度終戦の“聖断”が下され,15日正午からの天皇の放送によって国民は終戦を知らされ,ここに第二次世界大戦の戦火が消えた。

 [5]1945年の東アジアにおけるソ連の膨張と米−ソ二極構造時代の開幕 ヤルタ協定の極東条項は,中国の同意を前提とするものであったけれども,米・ソ両国とも対日参戦のソ連の密約の漏洩を恐れ,1945年6月15日まで,アメリカは協定の内容を蒋介石に公式に通告しなかった。中国は,日本の敗戦ののちソ連軍がいつまでも東北地区に駐兵することを阻止するためにも,ソ連と協定を締結する必要があり,行政院長兼外交部長宋子文をモスクワに派遣し,7月1日からスターリンと交渉を開始した。中ソ交渉条約は難航したが,アメリカの原爆実験成功と対日参戦問題の切迫という状況のなかでソ連も歩み寄り,8月14日,モスクワで中ソ友好同盟が調印され,中国はヤルタの密約がつくりだした国際環境のもとに妥協を余儀なくされた。対日開戦後の8月10日,ソ連軍は朝鮮半島にも攻撃を開始し,雄基・羅津・元山に上陸し,北緯38度線まで制圧したが,さらにスターリンは日本降伏の直後にあたる16日,東は釧路,西は留萌にいたる線から北半分の北海道の占領をアメリカにむかって要求した。これに対してトルーマンは,18日に日本占領へのソ連の参加を拒否する決意を固め,その旨を回答した。同じ日の18日以後,ソ連軍は固有の日本領土である北方4島にも進駐を開始し,9月1日には占拠を完了した。翌2日,東京湾に進駐したアメリカ戦艦ミズーリ号上で日本政府を代表する重光葵外相と,日本軍代表の参謀総長梅津美治郎が正式に降伏文書に調印し,ここに第二次世界大戦は完全に終結した。

 アウシュヴィッツに代表されるナチスの蛮行を初めとする第二次世界大戦中の数々の悲劇を永久に忘れることはできない。ドイツと日本が無条件降伏した1945年という年は,核兵器使用開始の年であり,人類絶滅の脅威の時代の開幕を告げる人類史上画期的な年になったが,それとともに1945年は,米ソ両超大国を基軸とする第二次世界大戦後の二極構造時代の始動期であった。

〔参考文献〕テイラー,古藤晃訳『第二次世界大戦』,1981,新評論

ピーター=ヤング編著『第二次世界大戦通史』1984(重版),原書房

岩波講座『世界歴史29 第二次世界大戦』1971,岩波書店

荒井信一『第二次世界大戦』1973,東京大学出版会

山上正太郎『第二次世界大戦』1979,教育社

三宅正樹・秦郁彦・藤村道生・義井博編『昭和史の軍部と政治』全5巻,1983,第一法規出版

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