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第二次世界大戦 だいにじせかいたいせん

 始まりは諸説があるが,一般的には1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵略開始以降ヨーロッパ戦争が,1941年に勃発した独ソ戦争と太平洋戦争(当時の日本は,大東亜戦争と呼んだ)に拡大し,1945年8月15日の日本の降伏までつづいた戦争をいう。

【大戦前史】[1]日本・ドイツの膨張 第二次世界大戦には,ドイツの戦争と日本の戦争という二つの起源があるが,日本のほうがドイツよりも先に戦争を始めた。第一次世界大戦後の東アジアや太平洋の問題をめぐる国際秩序として,1921年〜22年の軍縮会議の結果成立したワシントン体制を,日本は明治以来の大陸進出政策抑制を狙った米・英両国指導下の反日政策の所産と受け取って反発し,1931年9月18日に満州事変をおこし,中国東北地方に「満州国」を樹立した。1933年3月27日,日本は国際連盟を脱退して「満州国」建設を急ぎ,ついで,1937年7月7日に偶発した北京郊外での蘆溝橋事件を発端として,中国全土に戦火を拡大したが,蒋介石の国民政府は共産党軍と力を合わせ,抗戦をつづけた。広大な中国で進退きわまった日本軍がこの窮地の打開に期待を寄せたのは,ドイツの華々しい侵略政策成功の“躍進”であった。1919年のパリ講和会議の決定として成立したヴェルサイユ体制は,ドイツを犠牲とする国際秩序であったため,ドイツ人の不満は大きく,ドイツ人のこの国民感情に支えられ,1929年秋以後に襲った世界恐慌による社会経済の大混乱のなか,1933年1月30日にナチス政権が成立した。ヒトラーは政権掌握後ただちに,ナチス一党支配・ナチス党内反対派の粛清・総統就任といった措置をとって独裁体制の確立に奔走するとともに,国際連盟脱退(1933年10月14日),ザール地方のドイツ帰属決定(1935年1月13日),徴兵制復活による再軍備宣言(1935年3月16日),ラインラント進駐(1936年3月7日)などの積極政策を次々に展開して,ヴェルサイユ体制の打破に乗り出した。ドイツは1936年7月18日に勃発したスペイン内乱では,フランコを援助する一方,その前年の1935年10月3日から始まったエチオピア戦争の際に兆しをみせていたイタリアへの接近の機運を,1936年10月にベルリン-ローマ枢軸の結成へとすすめた。ついで1936年11月25日に,日−独間に防共協定が成立,翌1937年11月6日にイタリアが参加し,日・独・伊3国の結束が固められた。この枢軸国の接近は,本来1935年夏のコミンテルン第7回大会で採択された人民戦線戦術や,ソ連の国際共産主義運動に対抗する措置であったが,やがて,ドイツは日独伊防共協定の対象を,イギリス・フランスに変更する企てを画策し,とりわけ日本に対して,1939年8月23日に独ソ不可侵条約が成立するまで,この計画に協力するよう執拗に働きかけた。

 [2]大戦前夜の国際危機 1938年3月13日,ドイツはウィーンに武力進駐し,独墺合邦を宣言した。対外侵略の第1歩に成功したヒトラーは,ドイツ人の居住しているチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を強要し,国際緊張をひきおこした。この問題の解決をめざして,南ドイツのミュンヘンで開かれた国際会談では,イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4カ国の首脳が参集したのみで,当事国チェコスロヴァキアとソ連の代表は招かれず,イギリス首相A.N.チェンバレンの宥和政策が支配して,ヒトラーの要求を認め,9月30日にミュンヘン協定が成立した。これによりヨーロッパ戦争勃発の一触即発の危機が回避されたから,チェンバレンはこの協定を〈わが時代のための平和条約〉と誇ったが,しかし,ソ連は同協定を反ソ4国協定ととらえ,次のドイツの東方進出を警戒した。

 1939年3月15日,ヒトラーはチェコスロヴァキアの首都プラハにドイツ軍の進駐を命じ,ベーメン(ボヘミア)とメーレン(モラヴィア)をドイツ領に編入するとともに,スロヴァキアを保護国にするという措置を一方的に宣言した。このようにしてつかのまの“ミュンヘンの平和”は破られ,チェコスロヴァキアは滅亡した。ついでヒトラーは,ポーランドに対し,ダンチヒの返還と,回廊地帯に治外法権をもつ自動車道路と鉄道の敷設を強要した。ポーランドは英・仏両国の後援を頼み,ドイツの要求を拒否したため,国際緊張が高まった。ヒトラー二正面戦争を避ける必要から,ソ連との和解をめざす秘密交渉をすすめた。ソ連は,ミュンヘン協定以来の英・仏両国の態度に不満を抱いていたので,イデオロギーよりも国益を選び,8月23日に独ソ不可侵条約を締結して,全世界に衝撃を与えた。しかし,この条約の締結のためにヒトラーがソ連に支払った代償は莫大で,秘密追加議定書を交換し,バルト諸国(フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア)の勢力範囲分割・ポーランド侵略の分割に関する独ソ協定のほか,当時,ルーマニア領になっていた旧帝政ロシア領ベッサラビアの権益をもソ連に保障した。ソ連はこの秘密議定書の存在を否認するが,現実に第二次世界大戦後の国境が,ほぼこの協定線となっていることが注目される。

【大戦の展開】[1]ヒトラーのヨーロッパ制覇 ポーランドに対する要求を武力で貫徹することを決めたヒトラーは,1939年9月1日,ドイツ軍にポーランド進撃を下令した。3日,英・仏両国がドイツに宣戦布告し,第二次世界大戦が発生したが,ドイツ機甲師団の侵攻は空軍の支援を受け,英・仏両国にポーランド援助の余裕を与えず,旧式装備のポーランド軍を電撃戦で打倒した。17日にはソ連軍も,ウクライナと白ロシアの住民を保護することを開戦理由として,東部ポーランドに侵入を開始した。独・ソ両国のポーランド挾撃は,独ソ不可侵条約の秘密追加議定書に拠る行動とみてよい。ドイツ外相リッベントロップとソ連外相モロトフは,両軍の占領地域の実態にもとづく分割線の改訂に合意し,9月28日付の「独ソ境界ならびに友好条約」に調印した。この独ソ分割協定線は,1920年のイギリス外相カーゾンの案出した,いわゆるカーゾン線を基礎とするもので,今日のポーランドとソ連の国境は,この境界線が基礎となっている。

 フランス軍の対独戦略は防衛を主眼とするものであったから,西部戦線でドイツ牽制の行動をなんらおこすことはなく,第4次ポーランド分割に対して拱手傍観するのみであった。9月28日,ドイツ軍は首都ワルシャワに入城したが,祖国を失ったポーランドはロンドンに亡命政権を樹立した。

 ついで,ソ連は,レニングラード周辺の基地割譲をフィンランドと折衝したが,交渉が決裂し,同年11月30日,ソ連-フィンランド戦争が勃発した。そのためソ連は国際連盟から除名され,世界の同情がフィンランドに集まった。翌1940年3月13日に休戦が成立し,フィンランドはカレリア地区などの割譲を強いられた。

 ポーランド戦終結後,英仏軍はドイツ軍と本格的決戦を挑むことなく,“奇妙な戦争”と呼ばれる状態が7カ月ほどつづいたが,大戦第2年目に入った1940年,ドイツ軍は4月9日からノルウェー・デンマークに突如侵入するとともに,5月10日には北フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクにも電撃戦を展開して各国を席捲し,5月15日のオランダの降伏のあと,イギリス軍は北フランスのダンケルクから本国に撤退した。この状勢をみていたイタリアが6月10日に参戦し,南フランスに侵入した。6月14日,ドイツ軍はパリに無血入城して大国フランスを降し,同月22日,コンピェーニュ独仏休戦協定に調印した。

 ヒトラーが,ヨーロッパ大陸の覇王のような観を呈したのはこのころのことで,急激に脅威を感じたソ連はその対抗措置として,バルト三国のエストニア・ラトヴィアを6月15日に,ついで17日にリトアニアを併合する一方,6月28日から7月1日にかけ,ルーマニアにベッサラビアと北ブコヴィナを割譲させた。独−ソ関係は,ソ連のこの行動によって急速に冷却した。

 7月19日,ヒトラーはイギリスに和平を勧告したが,チェンバレンに代わって組閣していたチャーチルの戦意は堅く,講和は成立しなかった。

 [2]ヒトラーの対ソ攻撃の決定と日独伊三国同盟の締結 ドイツはイギリス本土空襲を強化したが,“あしか作戦”と名づけられていたイギリス上陸作戦の実施は,海軍力の劣勢から容易でなかった。7月31日,ヒトラーは南独ベルヒテスガーデンの山荘で秘密会議を開き,対ソ攻撃を意味する“バルバロッサ作戦”を対英上陸作戦よりも先に決行したいという決意を洩らすとともに,イギリスの対独戦意を挫くためのいま一つの手段として,アメリカの牽制をめざし,そのため日本の役割に大きな期待をかけているという意向を示唆した。9月17日,ヒトラーは“あしか作戦”の延期を決定した。ドイツ空軍はイギリス本土上陸作戦実施の前提となるイギリス海峡の制空権獲得をめぐる,いわゆる“ブリテンの戦い”に敗れ,イギリス空軍の制圧に失敗したことが明らかになったからである。

 一方,日−独関係は独ソ不可侵条約締結以後冷却していたが,フランス征服を頂点とするヒトラーの電撃戦の勝利は,日中戦争の打開を焦っていた日本を眩惑し,1940年7月22日に成立した第2次近衛内閣は,松岡洋右外相のイニシアチブのもとに9月27日,日独伊三国同盟の締結に踏み切った。この同盟の狙いは対米牽制にあったので,同盟締結以後日−米関係は急激に悪化した。

 三国同盟には,ソ連を加えて日独伊ソ四国同盟に拡大するのみでなく,ヴィシー政権のフランスやフランコ治下のスペインを加え,横浜からマドリードまでのユーラシア大陸の結束を固める大陸ブロック計画といった遠大な構想がリッベントロップ外相の胸中にあり,この期待が同盟締結への日本の主要な動機の一つであった。11月12〜13日,リッベントロップ外相はモロトフ外相をベルリンに招き,この構想をソ連に提議したが,モロトフは,この会談でフィンランドやバルカンへの進出の希望を執拗に主張したため,ヒトラーの反ソ感情が強く刺激された。ヒトラーは,ソ連の関心をインド洋方面にかわそうとつとめたが,11月26日の四国同盟構想についてのスターリンの回答に接し,この企てがすべて水泡に帰したことを悟り,12月18日,つとに抱いていた“バルバロッサ作戦”の実施に最終の決断を下した。

 [3]独ソ開戦と太平洋戦争勃発 1941年に入り,独−ソ関係はユーゴスラヴィアをめぐるバルカン問題の危機から破局を迎え,6月24日ドイツは対ソ攻撃を開始した。ヒトラーの戦争目的は,著書『わが闘争』のなかで豪語しているように,東ヨーロッパにドイツの東方大帝国を建設して,ドイツの生存圏(Lebensraum)を確立するのみでなく,さらにユダヤ人の絶滅と,スラヴ人の奴隷化を断行するという狂信的な人種理論に支えられていた。そこで,独ソ戦争こそ軍事戦略と人種理論の一致したヒトラー本来の構想にもとづく戦争であったとみるべきで,きわめて残忍な,大規模の征服戦争になった。

 一方,松岡外相はドイツの外交路線の激変に対する認識の欠如のままベルリン・ローマ訪問の帰途モスクワで,1941年4月13日,日ソ中立条約を締結したが,日−米関係改善の交渉は,近衛首相と松岡外相とのあいだに対米政策をめぐり大きな相違があったことにより,円滑に進展しなかった。6月22日の独ソ開戦直後,日本では北進論が高まり,関東軍特別演習(関特演)を名目として大動員を行ったが,結局は南進を選択し,7月28日に日本が南部フランス領インドシナに進駐すると,アメリカ・イギリス・オランダは,日本に資産凍結令を発令して対抗するとともに,8月1日,アメリカは石油の全面禁輸令を発し,日本の死命を制する強硬措置をとった。8月12日,ルーズヴェルトとチャーチルは,大西洋会談を開き大西洋憲章を発表したが,近衛とルーズヴェルトが直接会見するはずの太平洋会談の計画は実現せず,やがて11月26日,東条英機を首班とする日本政府に対して,厳しいハル=ノートが提出されるに及び,日米交渉は完全に頓挫し,12月8日,真珠湾攻撃が始まった。12月11日,ドイツとイタリアもアメリカと開戦したので,戦争は文字通り世界大戦になった。

 [4]戦局の逆転 独ソ開戦後,ドイツの北方軍はレニングラードに,南方軍はキエフにむかって進撃したが,1940年7月16日,モスクワをめざす中央軍がドニエプル川上流のスモレンスクを占領したあと,ヒトラーは作戦計画に容喙して軍部のモスクワ進撃第一主義の主張を抑え,ドネツ盆地の早期占領の先決を指令した。9月19日,ウクライナの首都キエフを占領したが,この作戦の実施によってモスクワ攻略が2カ月遅れた。10月下旬にドイツ機甲部隊の先鋒が,モスクワから30〜50kmの地点にまで接近したが,折から厳しい寒気がドイツ軍の進撃を阻んだ。12月5日,零下30〜40度という極寒の到来とともに,ジューコフ,G.K.の指揮するソ連軍が大反撃に移り,ドイツ軍は初めて後退した。日本海軍真珠湾攻撃はその直後の12月8日であった。

 1942年までは枢軸国側の優勢はなおつづいた。北アフリカ戦線ではE.ロンメルの率いる枢軸国軍が,一時スエズ運河の近くまで進撃したが,10月以後イギリス軍が反撃に転じ,ついで11月8日,D.アイゼンハウアーを総司令官とする米英連合国軍がフランス領北アフリカに上陸した。チャーチルは中近東・地中海・アフリカ方面の確保を重視しており,この構想は,イタリアやバルカン方面の〈枢軸国の柔らかい下腹〉からドイツを攻撃するという戦略にもとづくものであって,同時に,地中海・バルカン・中近東・インドに及ぶ大英帝国の権益擁護を戦争目的とするイギリスの政略に由来する方針であった。

 1942年の独ソ戦線では,ドイツ軍は戦線を立て直して南方に重点を置き,7月3日セバストポリを奪い,ついで油田地帯の支配をめざし北コーカサスに侵入する一方,ボルガ川の要衝スターリングラードの戦い(現在のボルゴグラード)の攻略に着手した。8月23日,ドイツ軍の先陣が市の北端に達したが,ソ連軍は市民とともに凄惨な市街戦に耐え抜き,11月19日以後大反撃に移り,ドイツ軍を重囲のもとに陥れた。1943年2月2日,ドイツ軍司令官パウルス以下9万1,000の将兵は力尽きて降伏した。ソ連軍の勝利は,独ソ戦局を根本的に転換させる重大な意義をもつものであった。

 一方,1941年12月8日の太平洋戦争の開戦とともに,日本軍は緒戦でアメリカ領フィリピン・オランダ領インドネシア・イギリス領香港・イギリス領マレー・イギリス領ビルマなどを次々に席捲し,「大東亜共栄圏」の確立を急いだ。とくに,1942年2月15日,シンガポール陥落大英帝国の威信を著しく低下させ,ヨーロッパのアジア支配に終止符を打つ象徴的な出来事となった。ところが,同年6月5日のミッドウェー海戦日本海軍は惨敗し,主力機動部隊は大損害をうけ,これを境として形勢が逆転し,1943年2月1日のガダルカナル島撤退を始め,日本軍は各地で退却した。

 戦局の挽回を焦るヒトラーは,1943年7月5日,クルスクでの大攻勢を下令した。この戦いにドイツ軍は総力を結集したが,ソ連軍の反撃が効を奏し,この勝利を転機に,ソ連軍は1944年中にドイツ軍を全ソ連領内から完全に駆逐することができた。

 1943年1月14〜25日のカサブランカ会談枢軸国に対する無条件降伏政策を決定したが,米英連合国軍はこの会談で取り決めた作戦に従って,7月9日から10日の夜,シチリア島に上陸を開始した。危機的状況の切迫するなかで,イタリアでは政変がおこった。ムッソリーニの戦争指導に絶望したグランディが7月25日,ファシズム大評議会でムッソリーニの掌握していた全権の返還を可決し,そのため解任を決定した国王は P.バドリオを後継首相に任命した。9月8日,バドリオ政権下のイタリアが無条件降伏し,枢軸陣営の一角が崩れた。

 枢軸陣営の敗色歴然とした状況のなか,11月22〜26日,ルーズヴェルト・チャーチル・蒋介石は,エジプトの首都カイロで会談し,対日軍事作戦や日本の領土問題の処分を協定した。ついで,11月28日から12月1日にかけてイランの首都テヘランで,ルーズヴェルト・チャーチル・スターリンの最初の三巨頭会談が開かれ,第二戦線結成問題などが討議されたが,この会談で,スターリンが早くも対日参戦の言質を与えたことが注目される。

 1944年6月6日,ノルマンディー上陸作戦が成功して第二戦線が実現をみ,8月24日,パリが奪還された。その間にドイツでは,「7月20日事件」がおこったが,ヒトラーの暗殺は未遂に終わり,また,日本は6月19日のマリアナ海戦に敗れ,7月7日にはサイパンを失った。18日,東条内閣が倒れ,22日,小磯国昭・米内光政連立内閣が成立したが,敗勢の挽回は到底不可能であった。

(1/2:続く)

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