●第二共和政 だいにきようわせい
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二月革命の勃発(1848年2月27日)から,ルイ=ナポレオン大統領が皇帝に就任する(1852年12月2日)までの政治体制。ルイ=フィリップ下のギゾー内閣はパリ市民の市街戦ののち倒れ,ラマルティーヌなどの臨時政府が樹立される。この革命は,金融寡頭制に対する産業的中産市民・小市民の抗争だけでなく,労働者固有の社会主義的要求も包含していた。普通選挙制と言論・出版の自由が保障され,ルイ=ブランの構想になる国立工場も設置された。しかしその維持のための臨時税が労働者に対する不満を招き4月の制憲議会ではブルジョワ共和派が圧勝,国立工場も閉鎖された。6月,バリケードを築いて抵抗した労働者をカヴェニャック陸軍大臣が鎮定。10月に三権分立・大統領制の新憲法が布告され,12月の大統領選挙で農民・一部労働者の支持を得たルイ=ナポレオンが,共和派・王党派・社会主義派の候補を大差で破って当選。翌年5月の立法議会選挙で,正統王朝派とオルレアニストからなる秩序党が大勝した。共和派は追放され,オディオン=バロー内閣のカトリック聖職者による教育の指導を許した。秩序党が普通選挙制の撤回に進むと,大統領との対立が表面化し,ルイ=ナポレオンは1851年12月のクーデタで議会を解散。大統領任期を4年から10年に延長し,人民投票で承認を受けた。1852年1月,大統領権限を著しく拡大した憲法の修正を行った後,11月,新設の元老院に提案させた世襲帝制を人民投票にかけ,ナポレオン3世として皇帝に就任した。第二共和政は産業革命の完成期にあたり,その結果生じた産業的中産市民と労働者の社会対立をかかえており,議会制は機能してもブルジョワ共和派の力は弱く,王党諸派の復活をゆるした。このことから,〈共和主義者なき共和政(デュヴェルジェ)〉ともいわれる。ルイ=ナポレオンはこれらの対立を利用しながら大ナポレオンの栄光を追憶させ,超均衡的独裁権力を樹立するのに成功した。