●大東亜共栄圏 だいとうあきょうえいけん
AD
第二次世界大戦中、東アジア・東南アジアを中心に日本が建設しようとした自給自足の勢力圏。日本は、日中戦争の長期化とともに、その目的として日本・中国・満州国の協力による「東亜新秩序の建設」を唱えた(1938年の近衛文麿首相の声明)。1939年(昭和14)ヨーロッパで第二次世界大戦がはじまり、1940年春ごろからドイツ軍がめざましい勝利をおさめると、日本国内では陸軍を中心に、この機会に乗じて武力行使も辞さずに南進し、東南アジアにおけるイギリス・フランス・オランダの植民地を日本の勢力圏におさめ、石油・ゴムなどの重要軍需資源を確保しようとする気運が高まった。そして1940年7月米内内閣が陸軍の反対で倒れ、第二次近衛内閣(外務大臣松岡洋右・陸軍大臣東条英機)が成立し、その直後に「大東亜ノ新秩序建設」と南進政策を基本方針とした「基本国策綱領」「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定された。それは陸軍を中心に立案され、海軍・外交当局と協議のうえで、決定されたものであるが、そこでは、世界が今後4大ブロック(アメリカ圏・欧亜圏・ソ連圏・大東亜圏)に分かれるという見通しのもとに、日本が盟主となり英米依存を脱却して“大東亜”を包含する経済自給圏を確立するという構想が盛り込まれていた。このころから、「大東亜新秩序」または「大東亜共栄圏」なることばが盛んに用いられるようになった。“大東亜”の領域は明確ではなかったが、「時局処理要綱」の提案理由のなかでは、日・中・満を根幹におおむねインド以東、オーストラリア・ニュージーランド以北の南洋方面とされており、さし当たって、フランス領インドシナ(仏印)・タイ・マレー・オランダ領インドシナ(蘭印)・ビルマなどを円ブロックの勢力圏に取り入れようとするものであった。こうした基本政策にもとづき、1940年9月日本軍の北部仏印進駐が行われ、日独伊三国同盟が成立、ヨーロッパにおける新秩序建設に関しドイツ・イタリアの指導的地位と、大東亜における新秩序建設に関し日本の指導的地位を相互に認め合った。しかし、日本のこのような政策は、アメリカ合衆国と正面から対立。1941年7月、日本軍が南部仏印進駐を実行すると、アメリカは経済制裁でこれに応じ、同年8月、対日石油輸出禁止を行った。1941年12月、日本は東南アジア・太平洋地域で軍事行動を開始し、太平洋戦争の勃発となった。日本は、タイと攻守同盟を結ぶとともに、半年足らずのあいだに香港・マレー半島・シンガポール・ビルマ・オランダ領インドシナ・フィリピン・ソロモン諸島などを占領。戦争目的として掲げられたスローガンは、日本を中心とする大東亜諸民族の協力により共存共栄の“大東亜共栄圏”を建設することであった。日本軍は占領地に軍政をしいたが、作戦行動上、現地民の協力を得ることが必要だったので、その限りでは旧宗主国に反抗する民族独立運動を援助した。1942年10月、大東亜地域に関する諸般の政務を統括するため、大東亜省が設置された。しかし、1943年5月の「大東亜政略指導大綱」ではビルマ・フィリピンの独立を認める方針を取ったものの、オランダ領インドシナやマレーは日本の領土とし、重要資源供給地として開発する方針を決めた。同年8〜10月には、ビルマ・フィリピンの独立と自由インド仮政府の成立が日本によって承認された。そして1943年11月には、日本・中華民国(汪兆銘政権)・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの6カ国および自由インド仮政府の代表が東京に集まって大東亜会議を開き、前記6カ国代表により大東亜共同宣言が発せられた。ここでは、各国が相提携して戦争を完遂し、大東亜をアメリカ・イギリスから解放して道義にもとづく共存共栄の秩序を建設し、大東亜の安定をはかるという理念がうたわれていた。しかしこれらの諸国の“独立”も名目上で、実際には、日本軍がその実権を握っており、政策上の最重要目的は、重要軍需資源の獲得におかれた。日本による資源の掠奪的調達、軍事目的の工事への現地住民の強制就労、民族文化の無視、占領政策阻害者への苛酷な処刑などに対する激しい反発は、戦局の悪化に伴って、大東亜地域各地で、現地住民の反日運動や抗日ゲリラ活動をよびおこした。1945年8月、日本の敗北で第二次世界大戦が終わるとともに、大東亜共栄圏は崩壊した。
