●大ドイツ主義 だいドイツしゅぎ
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19世紀前半期におこり,1848年三月革命以来,主張されたドイツ統一方式に関する思想・意識。【三月革命期の大ドイツ主義】三月革命期,フランクフルト国民議会において,当初オーストリアのドイツ居住地を含めてドイツ統一国家をつくろうという考えがあった。大ドイツ主義とはこのような考えであった。しかし,この統一方式を実現しようとすれば,オーストリア帝国をドイツ人と非ドイツ人のそれぞれの居住地の二つに分断することになる。つまり,オーストリア帝国の解体をまねくことになる。オーストリア政府の強い反対によって,大ドイツ主義は厚い壁にさえぎられた。だがドイツ統一を断念しえないとすれば,統一方式はオーストリアを除いた領域を統一範囲とせざるをえない。これが小ドイツ主義である。したがって大ドイツ主義と小ドイツ主義とは,本来はそれほど大きい相違をもっていなかった。しかし現実には,フランクフルト国民議会でも,結局,小ドイツ主義の方向をたどっていった。だが三月革命では,いずれの統一方式も実現されなかった。
【大ドイツ主義の挫折】三月革命後オーストリア政府は,オーストリア全体を含むドイツ連邦,いわゆる「7,000万帝国」の実現を推進した。これに対してプロイセンは,自国を中心にオーストリアを除く勢力結集をはかった。しかし,こうした状況のなかにあっても大ドイツ主義の流れは消失してしまったわけではなかった。1860年代にドイツ統一への動きが活発化してくると,小ドイツ主義の旗をかかげる“ドイツ国民協会”(1859年創立)に対抗して,1862年10月,大ドイツ主義的な“ドイツ改革協会”が結成された。この協会の会員や支持者は,プロイセンやオーストリア以外の中邦諸国の人々であり,政治的カトリック運動とも結びついていた。カトリック人口は,ドイツ人口の過半数を占めていたので,協会の影響力は無視しえないものがあった。しかし協会の基本性格は,プロテスタント国でもあるプロイセンへの反発と拒絶反応の一点でのみ一致していたので,協会は自立的政治行動の拠点にはなりえなかった。1866年,普墺戦争がおこり,オーストリアが敗北すると,この協会も解散した。そして,この戦争の結果,ドイツ連邦が解体され,オーストリアがドイツ問題に関与できる地位を追われたので,大ドイツ主義も大きい痛手をうけた。さらに1871年,普仏戦争におけるプロイセンの勝利によって,ドイツ帝国が成立すると,大ドイツ主義は完全に挫折した。オーストリアは,ドイツ帝国とは名実ともに外国の関係に置かれ,約1,000万人のオーストリアのドイツ人は,ドイツ帝国の国民とは外国人の関係に立つことになった。
【消えぬ大ドイツ主義】ドイツ語という同一言語を話す人々が,一つの国家を形成するということは,人間自然の情であった。大ドイツ主義は,オーストリア=ドイツ人のなかに,またドイツ帝国内におけるカトリック教徒,中小邦内の反帝国派・社会民主党員などのなかに生きつづけた。第一次世界大戦後,民族自決権の名のもとに,オーストリア内の非ドイツ地域は,新生諸国家チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・ハンガリー・ポーランド・ルーマニアなどに割壌された。残りの地域がオーストリア共和国となった。こうして非ドイツ人地域から分離された新生オーストリアでは,ドイツと合併して,一つのドイツ国民国家への希求が生まれた。いわゆる“独墺合併論”である。かつての大ドイツ主義の再生を思わせるものであった。しかし戦勝国側によって,その悲願は阻止された。そして皮肉にも,この独墺合併という悲願は,1938年,ヒトラー政権によるオーストリア進駐によって実現されたのである。第二次世界大戦後には,東西ドイツとオーストリアという三つのドイツ人国家が並存している。
〔参考文献〕矢田俊隆『近代中欧の自由と民族』1966,吉川弘文館
望田幸男「ドイツ史における国境の條件」『概説ドイツ史』1982,有斐閣