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●西山党 タイソンとう

アジア ベトナム社会主義共和国 AD 

 18世紀末,ヴェトナムで反黎朝反乱をおこし,1788年黎朝を倒してタイソン阮氏王朝をつくるが,1802年阮福映嘉隆帝)に敗れて滅亡する。ヴェトナムは16世紀以降,黎朝政権が分裂し,北部では黎朝皇帝を頂く鄭氏政権が昇龍城(ハノイ)により,中部および南部には,富春(フエ)に広南阮氏政権が生まれてたがいに抗争を繰り返していた。この間,両地域とも中央権力は急速に弱体化し,おのおのの村落が強力な自治体を形成するようになってきた。この一方で,18世紀を通じて,無数の天災が農業地帯を襲い,そのたびに村落内部から大量の流民を析出した。流民は食を求めて匪賊となり村落を襲うか,または人口過密なデルタから中部南部へ移動し,この地の大土地所有者のもとで開拓に従事するかしかなかった。広南阮氏政権の南端に近い,キニョン(帰仁)・クアンガイ(広義)の地は,本来南海交易でさかえたチャムパの故地で,18世紀に入り,こうした流民層の手で急速な開拓の進んだ地である。広南阮氏政権は17世紀,チャンパのあとを継いで南シナ海交易で栄えたが,18世紀に入って対日本交易が衰退のために,もっぱら地税収入に依存するようになり,このような新開拓地への搾取が強化されていた。このころ,キニョンのタイソン村にグエン=ヴァン=ニャック(阮文岳)・グエン=ヴァン=ル(阮文呂)・グエン=ヴァン=フェ(阮文恵)という三人の兄弟がいた。長兄の阮文岳は徴税吏であったが,税金をつかいこんだため西山村に逃げ込み,1771年,この地で兄弟とともに反乱をおこした。当時,フエで広南王朝の執政チョン=フック=ロアン(張福巒)は暴政をしいたために人心を失い,反乱は各地の流民をまきこんで急速に拡大した。1773年にはキニョンが陥落し,ついでクアンガイ一帯がタイソン党の手に落ちた。これをみた広南王朝の宿敵ハノイの鄭氏はただちにフエに兵を進めた。阮氏宮廷はフエを脱出し,南部デルタの中国人勢力をたよってサイゴンに逃れた。しかし,タイソンの阮文岳は1777年,南征軍を送ってサイゴンを攻め,阮氏最後の王睿宗を殺して,キニョンに即位し,年号を泰徳と定めた。一方,1786年阮文恵はハノイ政府の内紛を利用して,兵を北に進めてフエを奪い,さらにハノイを攻めて鄭氏を追放し,黎帝の謁見を得るにいたった。しかし,この行為は阮文岳の許しを得られず,タイソン内部に分裂が始まった。1787年,タイソンは占領した土地を三分し,阮文岳はキニョンにあって中央皇帝,阮文恵はフエをおさえて北平王,阮文呂はサイゴンにあって南定王をそれぞれ名乗った。1788年,清乾隆帝は黎帝の要請にこたえて,大兵をハノイに入れた。阮文恵は北上して翌年正月,清軍をハノイ郊外に破り,黎昭統帝を中国に追って,みずから光中帝と称した。1792年光中帝は没し,その子阮光纉が即位した。阮光纉は南はキニョンを占領してヴェトナムを統一し,10年間にわたって,ヴェトナムを支配したが,1802年,北上した嘉隆帝に破られ,タイソン阮氏王朝は終わった。タイソン阮氏は南は南部ヴェトナムに介入するシャム軍を破り,北は中国軍を追い返し,西はラオスにまで進出するなど,ほぼ現在のヴェトナム領域を統一的に把握した最初の王朝であり,国内においても初めてヴェトナム文字チューノムが公文書に用いられ,チューノム文学が発展するなど民族文化・民族精神が横溢した時代をつくった。この意味で,タイソン阮氏,とくに阮光中帝は現在,ヴェトナムで民族英雄としての高い評価を受けている。その反面,土地制度は多く黎朝時代を継承し,また政府内部ではキニョンなどの郷党閥が勢力を握り,さらに経済的にはサイゴンの華僑を弾圧するなど,発展する南シナ海貿易から背をむけて内向的な政策をつづけ,全土的な支持を得るにはいたらなかった。タイソン党の王朝は,これを覆滅した阮朝によって多くの史料が亡失させられたため,その政治,またヴェトナム史上の位置づけはよくわかっていない。今後の研究課題である。