●大正デモクラシー たいしょうデモクラシー
アジア 日本 AD
日露戦争終了の1905年(明治38)から,1925年(大正14)護憲三派内閣によって諸改革の行われた期間中に,日本の政治・社会・文化など各方面において顕わになった“民主主義”的傾向。まず第一に,日露戦後に進行した“民主”化であるが,それは,原敬の政友会が,官僚各セクションを横断的に連ねた山県閥とのあいだに表面上,妥協を行い,支配権力の中に割り込んでいく過程として現われた。“憲政の常道”のそれなりの定着が,それである。だが,桂太郎(山県閥)と西園寺公望(政友会の表向きの代表だが,自身は華族で,この後“最後の元老”となる)のあいだの個人的取引という要素が色濃かった。この時期は,日比谷焼打事件など,資本主義的体制のなかで容れられない都市細民などの部分が,一見反動的に見える目的(この場合は日露講和条約反対)に向かって,実力行動に起ち上っていった時期でもあった。都市細民など民衆が,一時的にせよ,政治社会の中に登場し諸支配勢力間の力関係に一定の強い影響を与えるまでになったことは確認できる。政党勢力は,しばしばそのような院外の大衆的な規模での民衆運動を背景に,その圧力をもって政府要路の者との政権交渉を行った。19世紀後半以来,日本の政治は,“維新の元勲”や旧士族有力者層,あるいは藩閥や官僚閥に片足をおきながらも制限選挙のためきわめて限られた範囲でしか大衆に基盤をおかない政友会のような特殊日本型議員政党,といった諸勢力のあいだの反発・妥協・提携・連合でしかなかった。そういう領域の中に,政治化した民衆がその姿を初めて現したのである。都市細民など民衆本来の考えや利益は,とりあえず原の政友会によって同党固有の利害法則に媒介されつつ,代弁されるということでしかなかった。が,しかし,これによって日本の政治社会は,従来の政局という狭いレベルを大きく越えることになったのである。他方で,山県閥もまた,そういった民衆の動向への対応を迫られたことも事実である。桂が,同志会という新政党の設立を構想したことは,その一端を示すものである。以上のような傾向は,第一次大戦後の米騒動において膨大な大衆が決起し,その起ち上りを背景に,原敬がついにその名に値するような政党内閣を組織する−−陸・海大臣以外はすべて政党員−−に至って,一つのピークに達する。この後の二次に及ぶ憲政擁護運動は,結局,そのような議会の多数を占める政党の党首が首班となって閣員を決め,その議会に対し責任を負っていくという議院内閣制に対して,藩閥・官僚・軍閥側からする反動的捲き返しへの反撃でしかなかった。つまり,1910年代後半,大正デモクラシー=政党勢力側は,獲得された地平と権益を何とかして擁護し確保しようとする位置におかれるに至ったのである。このように,第一の意味におけるデモクラシーは,茅原華山や吉野作造のいう〈民本主義〉にほとんど全く重なるもので,そこでは“民意による政治”の実現こそが最重要な課題であったといえよう。したがって,“民意”を代表しない各種の閥などが,非常に強い批判と論難の対象ともされたのであった。第二に,大正デモクラシーといった場合,その“底流”が問題とされることがある。それは,その時期を,国家の個人に対する緊縛力がゆるまり,文化が多少とも政治から相対的に自立していたころと見なし,人々の生活と意識が,ある程度深いところで変化したととらえる見方である。いいかえれば,明治の変革からとり残され,あるいは明治の変革によって新たな抑圧にさらされた人々ないしは諸階層の,“明治的近代”に対する何らかの意味での反措定を,大正デモクラシーの中に見ようとするものである。そのアンチ(反措定)は,ときに“土俗”“土着”ヘの回帰であったり,あるいは“非合理”的な“情念”に色どられていたりもしていた。総じて“反知性主義”の傾向性をかなり濃厚に帯びていたのが一般であったけれど,そこにはまた明らかに“明治”とその“近代”に対する叛逆・反抗の精神が底に一貫して強く流れていたことは,間違いない。むしろ,近代的なものとしての明治国家を撃ち呪咀しぬこうというセンチメントの厳存を我々は確認することができる。明治近代国家批判が,当時そのような表現形態をとらざるをえなかったのは,大正デモクラシーの底流に棹さしつつ体制批判を行おうとする部分自体が,すでに近代・明治・資本主義といったものの毒を自らの体内に十二分に浸みこませてしまっていたからにほかならない。その自己表現が,疎外されたそれとして,苦渋にみち,しばしば表面的に反動的ないし復古的とならざるをえないゆえんである。即時講和に反対して戦争継続をスローガンとした日比谷焼打事件における民衆の,怨念にみちた反政府・反体制のエネルギーは,それなりに評価されて然るべきなのである。第三に,20世紀初頭,特に第一次大戦後以降における労働運動や農民運動,さらには広義の社会主義運動の昂揚自体をもって,広い意味で大正デモクラシーと呼ぶ場合がある。被支配階級自身が起ち上り,自らを組織し,大衆的規模で社会的あるいは政治的権力に抗していくこと,それこそがデモクラシーの真に意味するところであるという見解である。第一次大戦後1920年代において,そのような労農などの社会運動は,より広汎な憲政擁護運動や普通選挙運動のする側にあったことは,否定できない。したがって後代から大局を俯瞰するならば,あるいはそういう見方も成り立つかもしれない。片山潜やそのグループ,また堺利彦らが普選運動と労働者組織化に非常に熱心であったことは,その格好な一例にほかならない。しかしながら他面,若手のホープ,山川均を先頭とした社会主義者たちは,普通選挙や護憲運動を歯牙にもかげず全く無視していたこともまた,今ではよく知られている。片山自身もまた挫折して,1914年逃げるようにアメリカに旅立っていった。アナ系であれボル系であれ,それが原則的に革命主義をとる限りにおいて,単なる権利獲得,あるいは改革でしかない護憲とか普選といった運動に対しては,それほど関心を抱くことができなかった。根本的な革命に究極にはつながっていく道の途中に,そのような個々の改革もまた位置しているということが理論的・実践的に明らかになったとき,改革派と革命派は手を結ぶことができるとすれば,当時は,そのような気運も理論も皆無であったことはいうまでもない。なお,未解放・被差別の民として,被支配階級の最下層におかれていた人々が,自らを水平社に組織し差別糾弾闘争に起ち上っていったのはまさしくこの時期のことであり,かつ大正デモクラシーの潮流の中から現れてきたものであったことは明白な事実である。大正デモクラシーにおいて,この部落解放運動は注目すべき動きの一つであり,それが当代の運動全体や社会体制の中で占めた位置と意義付けを見きわめていく必要があるであろう。ところで,政党政治の伸長・明治近代国家批判・被支配階級の起ち上りという,以上述べてきた大正デモクラシー解釈の三つのどれを軸にとったとしても,それは帝国主義的な対外侵略と少しも矛盾しなかったばかりか,しばしば歓迎してさえいたのである。徳富蘇峰がいう,〈尊王主義が平民主義の父母であると云ふ事を云ひ得れば,帝国主義は平民主義の長兄であると云ひ得るのである。イムペリアリズムは決してデモクラシーを無視して行はるるものではない。デモクラシーを無視したイムペリアリズムは根のない花である〉(『中央公論』23−3,1908年)と。そのことは,政党政治を行う政治家たちが,自己と自党派のために国内外の諸経済権益やポストの獲得や確保にきわめて熱心であったことに,まず第一に現れていた。第二には,明治近代に向けられた民衆の呪咀は,一方で“土俗”への回帰と沈潜という形に向いつつも,他方で日比谷焼打や大震災時の虐殺のように,膨張・侵略・排外・差別主義的な疎外態として,ときに暴発したのであった。第三に,大正デモクラシーは一部の例外を除いて植民地解放論をとることなく,単に暴圧的でない“文化”政治の主張か,完全独立でないひも付き自治の許容にすぎなかった。よりスマートな形での植民地統治=支配論と説かれるゆえんである。〔参考文献〕三谷太一郎『大正デモクラシー論』1974,中央公論
鹿野政直『大正デモクラシーの底流』1964,日本放送出版会
坂野潤治・加藤晴康・松沢哲成「シンポジウム,大正デモクラシー神話の再検討」『知の考古学6』1・2月号,1976