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●大正政変 たいしょうせいへん

アジア 日本 AD1912 大正時代

 1912年(大正1)12月から翌年2月にかけておこった第1次護憲運動によって,第3次桂太郎内閣が倒されるまでの政変をいう。これが民衆運動で内閣が倒された最初の事件である。政変の発端は,第2次西園寺公望内閣が総辞職するにいたった経緯にあった。まず1912年の次年度予算作成時に,緊縮財政策をとっていた西園寺内閣は,陸軍の2個師団増設予算要求を拒否して陸軍と衝突。これに対し陸相上原勇作は,明治憲法下における軍部の特権である「帷幄(いあく)上奏権」を行使して単独で辞職する。さらに陸軍は,後任陸相を出そうとせず,内閣は総辞職に追い込まれたのである。西園寺内閣はもちろん藩閥内閣であったが,ソルボンヌ大学に学びフランス自由思想にも触れた西園寺公望の率いる内閣には,ある程度自由主義的なところもあった。それが陸軍の特権乱用などの強引な策によって総辞職させられるに及び,一般市民の藩閥政治への不信感は高まった。そこへ桂太郎が登場して,不信は強い反発へと変わっていく。1912年12月5日に総辞職した西園寺内閣のあとを受けて,桂が組閣の命を受けたのは12月17日であった。桂は陸軍出身で長州閥の巨頭である。しかも宮中官たる内大臣兼侍従長の職から転じて3たび組織した内閣であった。1885年(明治18)に内閣制度が設けられるにあたって〈宮中〉と〈府中〉の別が確立している。桂が宮中から政権へ返り咲くということは,今までのルールを無視するということである。そんな形で登場した閥族の代表選手に,憲法擁護を主張する政党や一般市民の不満が爆発しないわけはない。12月19日,板垣退助のほか,立憲国民党の犬養毅,立憲政友会杉田定一尾崎行雄らが発起人となり,憲政擁護大会が開かれた。会場となった東京歌舞伎座には,政治家・交詢社の実業家・新聞記者・学生・人力車夫・露店商人ら3,000人が集まり,彼らの〈心に期する所は顔色に現れ,拍手に響き,開会に先立って剣気既に堂に満てり〉(1912年12月20日付東京朝日新聞)という状態であったという。そして大会では〈閥族打破・憲政擁護〉を内容とする決議が下された。こうして護憲運動は,またたく間に全国に広がっていく。憲政擁護大会も合わせて3度開かれ,約3万人が参加した。一方,桂太郎は組閣にあたり,元老として君臨していた山県有朋の系列下の官僚をはずし,若槻礼次郎後藤新平らを中心とすることにして,12月21日内閣を成立させた。しかし高揚する護憲運動の前には効なく,翌1913年1月,新党結成を策する。絶対多数の立憲政友会を切り崩そうとしたのである。桂は〈にこぽん宰相〉といわれていたが,それは,にこにこして対立する相手の肩をぽんとたたき,懐柔していくとされたからであった。「にこぽん」のことばは,この桂から始まっている。桂は金を用意して,その伝で政友会に属する議員を新党へと勧誘した。だがこの多数派工作は遅々として進まなかった。桂は時間かせぎのため,詔書を得て,議会を停会とした。また別の詔勅を求めもした。詔勅に頼ることは桂のよく使う手段だったが,それは,政友会総裁西園寺公望に下される,〈桂と和せよ〉という内容のもので,西園寺は総裁辞任を決意することとなる。そんななかで反政府的世論は高まるばかりとなり,政友会は政府弾劾決議案を出した。尾崎行雄の名演説〈玉座をもって胸壁となし,詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒さんとするもの……〉は,この決議案の説明時である。つづく2月9日の憲政擁護第3回大会には,東京・国技館に約2万人が集結した。ついに桂は議会解散を決意して,翌2月10日3度めの議会停会をすると,民衆は憤激して暴動となった。数万の群衆が議会を取り囲んだのである。2,500人の警官と3個小隊の騎馬憲兵が鎮圧にあたったが,民衆はさらに御用新聞とされた二六新報社などの新聞社や警察署・交番を焼き打ちにした。暴動は翌日以降に大阪・京都・神戸・広島に飛び火したが,桂内閣は2月10日に総辞職に追い込まれたのであった。