●大正時代 たいしょうじだい
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【大戦景気と工業の発展】大正時代は経済が急速な発展を遂げ,日本が近代工業国としての基礎をつくりあげた時代である。日露戦争後,軽工業部門では,綿糸紡績業・綿織物業・製糸などが戦前にひきつづいて発展し,綿糸・綿布は満州市場を中心に中国へ,生糸はおもにアメリカ合衆国への輸出が増加した。軽工業部門に遅れていた重工業部門においても,官営工場の拡充と並行して民間工場が発展をみた。鉄鋼業で官営の八幡製鉄所が中国から輸入された鉄鉱石を原料に本格的に生産を開始し,造船業でも大型鉄鋼船の建造が可能になり,世界の技術水準に追いついた。しかし,景気の動きをみると,日露戦争中から戦後にかけての好況は比較的短期間に終わり,その後は不況がつづいた。外債の利払いや軍需品・重工業原料の輸入増大などによって国際収支は悪化し,政府の財政難が深まった。こうした状況のなかで,1914年(大正3)第一次世界大戦が始まると,日本経済の不況と財政難は一変した。すなわち,大戦の長期化とともにヨーロッパ諸国の東アジア市場への輸出が後退し,これに代わって,綿糸・綿布を中心に日本の商品の東アジアへの輸出が急増して,ほとんど市場を独占した。アメリカ経済の好況を反映して,アメリカ合衆国向けの生糸の輸出も大幅に増大した。世界的な船舶不足のために,海運業・造船業は未曽有の好景気となり,日本の造船量は,アメリカ・イギリスについで世界第3位となった。いわゆる船成金が続々と出現したのも,大戦中の出来事であった。鉄鋼業では八幡製鉄所を中心に生産量が大きくのび,民間工場の設立も相次いだ。また,薬品・染料・肥料などの分野では,戦争のため,ドイツからの輸入がとまり,国産化が進んだ。このように重化学工業部門での発展がめざましかったが,産業構造の面からみると,大戦当初(1914年)には生産総額に占める工業生産額の比率は44.4%(約13億7,000万円)と農業生産額の45.4%(約14億円)に及ばなかったものが,大戦後(1919年)には,56.8%(約67億4,000万円)と農業生産額の35.1%(約41億7,000万円)を大きく上回るにいたった。こうした工業化の推進と輸出の発展に支えられて,国際収支は大幅な黒字となり,大戦前は債務国だった日本は,戦後にはいちやく債権国となった。【戦後恐慌と財閥の産業支配】第一次世界大戦後も好況はしばらくつづいたが,やがてヨーロッパ諸国が復興し,その産物が東アジア市場に輸出されるようになると,それとの競争に押されて日本の輸出は伸び悩んだ。貿易は輸入超過に転じ,1920年(大正9)には戦後恐慌がおこって,綿糸や生糸の価格が暴落した。ついで1923年の関東大震災によって京浜工業地帯は大きな被害を蒙り,日本の経済は大打撃を受けた。その後,電力事業や電気機械などの分野が発達したが,全般的には不況がつづいた。国際収支は再び悪化し,外国為替相場は動揺を深めた。このような経済的変動を通じて三井・三菱・住友・安田などの財閥は,金融・流通面から産業支配を強めていった。
【民衆的勢力の台頭】大正時代を通じて,政治面に現れた大きな特色は,民衆運動の高まりと政党の勢力拡張に代表されるいわゆる“大正デモクラシー”の発展であろう。日露戦争後には藩閥・官僚勢力に基礎をおく陸軍大将の桂太郎と衆議院の第一党たる立憲政友会総裁の西園寺公望とが「情意投合」して交代で政権を担当していたが財政整理の必要に迫られた第2次西園寺内閣が陸軍の要求する2個師団増設を認めなかったため,1912年(大正1)陸軍の圧力で総辞職した。これに代わって第3次桂内閣が成立すると,言論人や政党政治家のあいだから藩閥勢力や陸軍の横暴を非難する声が高まり,「閥族打破・憲政擁護」を叫ぶ第1次護憲運動がおこった。桂首相は自ら政党(立憲同志会)をつくって政局を乗り切ろうとしたが,護憲派を支持し桂内閣の退陣を要求する数万の群衆が示威運動を展開するなかで,桂内閣は総辞職に追い込まれた。これにつづいて立憲政友会の支持で薩摩閥の長老で海軍大将の山本権兵衛が内閣を組織したが,海軍の汚職(シーメンス事件)が原因となって退陣した。2個師団増設は第一次世界大戦のさなか立憲同志会を与党とした第2次大隈内閣のもとで実現したが,このような政変の過程を通じて,民衆の政治的な動きが活発となり,政党の力がしだいに大きくなった。
【政党政治の発展】第一次世界大戦中,全世界的にデモクラシーの風潮が高まったが,日本でも東京帝国大学教授の吉野作造が民本主義を唱え,民衆の幸福と利益のため民衆の意向にもとづく政治運営を主張して,広く言論界の支持を得た。これは,藩閥勢力の打破・政党政治の実現・普通選挙の実施などを要求する政治指導理論となり,デモクラシーの気運が国内にみなぎった。大戦中の工業の発展を反映して工場労働者の数は急増した。好景気に支えられて賃金は上昇したが,インフレ傾向がつづき,とくに大戦末期には米価が高騰して庶民の生活を圧迫した。1918年(大正7)夏北陸の漁村におこった米騒動は,たちまち全国にひろがり,各地で群衆が米商店や資産家を襲撃するという事件に発展した。米騒動の鎮静化ののち,藩閥勢力をうしろだてとした寺内内閣が世論の非難のなかで退陣した。政党嫌いであった元老中の実力者山県有朋も,政党内閣でなくては国民の支持を得られないことを理解,1918年9月,立憲政友会の原内閣が成立した。原敬首相は衆議院議員としてはじめての首相であり,陸軍・海軍,外務を除く全閣僚が立憲政友会のメンバーであった。原内閣は3年余にわたって政権を維持した。対外的にはベルサイユ条約を調印し,シベリア撤兵方針やワシントン会議への参加を決めるなど協調外交路線を進め,内政面では産業の振興・鉄道の拡充・教育施設の増設など積極政策を推進した。また,1919年選挙法を改正して選挙権を拡張し,翌年には総選挙で大勝し,立憲政友会による長期政権の基礎を固めた。原内閣成立以来五・一五事件による犬養内閣の崩壊(1932年5月)にいたるまで,11代の内閣のうち8代の内閣が政党内閣であった。しかし,原内閣は,野党(憲政会と立憲国民党)側や知識人・労働組合なとのあいだに高まった普通選挙実現を要求する運動(普選運動)や社会政策実施の声には消極的であった。また,1920年以降,戦後恐慌のあおりを受けて積極政策は行き詰り,財政整理が大きな問題となった。こうして原内閣の時代を通じて政党政治は大きく発展したが,反面,政友会の絶対多数による政治運営は,多数党の横暴という非難も呼びおこした。そして未解決の問題を残したまま,1921年11月原首相暗殺事件により,原内閣は退陣した。
【社会運動の展開】第一次世界大戦末期から直後にかけて,工業化の進展とロシア革命や米騒動の影響を受けて,労働運動や社会運動が活発となった。それまで労資協調的な労働者の組織だった友愛会は,しだいに急進化し,1921年(大正10)には日本労働組合総同盟となり,頻発する労働争議や労働組合の結成を指導した。農村でも小作争議がしばしばおこり,1922年日本農民組合が結成されて農民運動の中心となった。また,被差別部落の人々のあいだからも,社会的差別から解放を求める運動が高まり,1922年にはその全国組織として全国水平社の創設をみた。新婦人協会を中心とする婦人参政権運動も始まった。教師・学生や言論人を中心とする知識人のあいだでも,東京帝国大学の新人会や早稲田大学の建設者同盟などデモクラシーと社会改革をめざす革新団体が次々とつくられた。こうした状況のなかで,社会主義運動も息を吹きかえし,1922年には,日本共産党がひそかに結成され,モスクワに本部を置くコミンテルンの日本支部として,君主制の打倒とプロレタリア独裁の確立をめざして活動を開始した。一方,国家主義の立場から国家の改造をめざす運動も活発になった。
【普通選挙と治安維持法】原内閣の後を継いだ高橋内閣はワシントン会議で諸条約の締結を推進したが,閣内の不統一で半年足らずで退陣した。その後,加藤(友)・山本・清浦の3代にわたって非政党内閣がつづいた。しかし,対英・米協調と財政整理の必要から,ワシントン海軍軍縮条約にもとづく海軍軍縮が実施され,陸軍の軍縮(山梨軍縮)にも着手された。その結果,1921年(大正10)には一般会計歳出中49.1%(約7億3,100万円)を占めていた軍事費の比率は,1925年には29%(4億4,300万円)と大幅に低下した。1924年1月貴族院の勢力を基礎とする清浦内閣が成立すると,憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲3派は,〈時代錯誤の特権階級内閣〉として,清浦内閣の打倒と政党内閣の樹立をめざす第2次護憲運動を展開した。そして総選挙で勝利を収め,同年6月,憲政会総裁の加藤高明を首相に,護憲3派の連立内閣が成立した。加藤高明内閣は協調外交と軍縮政策を推進することともに,第一次世界大戦後長らく政治的争点となっていた普通選挙の実現にとり組んだ。1925年衆議院議員選挙法の改正により,納税の有無に関係なく25歳以上の男子に選挙権が与えられた。この結果,有権者はそれまでの334万から1,241万に急増した。しかし,これと並行して,〈国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スル〉運動を取り締まるため治安維持法が制定された。これによって普通選挙の実現にもかかわらず,社会主義政党(無産政党)の合法的な活動はきわめて困難となった。加藤高明内閣の成立から犬養内閣の崩壊まで,約8年間,6代にわたって政党内閣がつづき,政党政治は「憲政の常道」となった。しかし,憲法上に議院内閣制が規定されたわけではなく,統帥権の独立などにより議会の権限は制約されており,軍部・枢密院・官僚など議会外・政党外の勢力はなお大きかった。政党政治とはいえ,総選挙を通じて政権の交代が行われるのではなく,議会外勢力と結んで野党が内閣を倒し,政権を握った上で総選挙により多数の議席を占めるというのが,政権交代のパターンとなった。有選者の増大により政治資金は巨額化し,資金調達をめぐって政党と財界の結びつきも深まり,政党政治家の汚職事件もしばしばおこった。こうして一方では政党政治に対する不信感もしだいに高まり,軍部や国家主義団体のなかには,政党政治打破の動きが徐々におこっていくのである。
〔参考文献〕岡義武「転換期の大正」『日本近代史大系5』1969,東京大学出版会
升味準之輔「日本政党史論」3〜5巻,1968,東京大学出版会
今井清一「大正デモクラシー」『日本の歴史』23,1967,中央公論社