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●太政官制 だいじょうかんせい

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 律令官制における最高官庁の構成。一般的にはだじょうかんせいとも読む。

【成立過程】645年(大化1)6月,蘇我氏本宗の打倒後に成立した新政権の構成で,阿部内麻呂(あべのうちのまろ)が左大臣蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)が右大臣に任命されたが,唐官制にならって,従来の大臣(おおおみ)を左・右に分けたものにすぎない。律令制的な太政官制の発端は,671年(天智10)正月,皇太子執政の伝統をひく太政大臣に大友皇子左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ),右大臣に中臣金(なかとみのかね),御史大夫(ぎょしたいふ)に中央大豪族3人が任命されたことで,議政官つまり狭義の太政官の端初とみられる。またこの時期に,のちに式部省に発展する法官(のりのつかさ)がみえることも注意される。672年の壬申(じんしん)の乱をへた天武朝では,大臣の任命がなく,天皇の意向を受ける侍奉官としての納言(なごん,狭義の太政官)と,庶務処理の中枢としての大弁官(おおともいのつかさ)との関係については諸説がある。両者が並列的な関係であったか,あるいは上下関係か,また有機的な上下結合による職務処理のメカニズムが形成されていたかのいずれかである。ついで689年(持統3)6月施行の浄御原令の官制では,やはり皇太子執政の伝統を踏まえた太政大臣,執政官としての左・右大臣,大・中・少納言に分化した納言が,狭義の太政官として規定され,これと上下結合関係にある弁官は,左・右弁官に分化したが,これらを総合した広義の太政官に,大宝令制で八省に展開する八官が統属されて,律令太政官制の原型が成立した。

【太政官制の成立】701年(大宝1)3月に施行された大宝令の官制においては,まず狭義の太政官として,太政大臣,左・右大臣,大納言が規定された。浄御原令の中納言は廃止されて,少納言は,広義の太政官内の事務部局の一つに転化したのである。〈其ノ人無ケレバ則チ闕ケ〉と大宝官員令に規定された太政大臣は,適任者がなければ欠官とされて,常置されなかった。そして太政大臣,左・右大臣が太政官の長官(定員各一人)を構成し,定員4人の大納言が次官として位置づけられたとみられる。次に官内の事務局として,天皇の秘書官局としての少納言局,支配機構の庶務中枢として,文書行政のかなめになる左・右弁官局とがあり,太政官3局と呼ぶ。この狭義の太政官と3局とが,それぞれ異なった職掌をもちながら,一体として機能を果たし,8省以下を統轄して政務を処理した。そして4省ずつの庶務を分掌した右弁官局左弁官局と8省との関係は,全面的な上下管属関係ではなく,行政上の文書によって庶務を管掌する関係であって,8省は広義の太政官に管属したのである。また必要に応じて,太政官は諸国に巡察使を派遣した。太政官から8省・諸国に下す文書を官符と呼び,諸寺社や僧綱(そうごう)ヘの文書を官牒と呼ぶ。

【その変遷】議政官には,その後に中納言・参議・内大臣などの令外官が設けられ,また恵美押勝(えみのおしかつ,のちの藤原仲麻呂)政権の758年(天平宝字2)8月に,太政官は乾政官(けんせいかん)と改称されたが,恵美押勝の乱で彼が敗死した直後の764年9月,旧に復された。平安時代になると,政務や儀式などで,大臣不在のとき,大納言のうち一人が上卿(しょうけい)として行事を主宰したが,しだいに政務は蔵人所と弁官とが実務の中心になり,官符・官牒に代わって官宣旨が効力をもつことになった。そして太政官は有名無実化しながら江戸末期まで存続したが,明治政府は1868年(慶応4)正月に太政官代を設け,同年閏4月に立法・司法・行政を統べる最高官庁として太政官を設置,1869年(明治2)7月には,神祇官と並んで,民部省以下の6省を管轄し,左・右大臣,大納言,参議が政治に参与した。その後,変遷をへて,1885年に内閣制度の発足によって,太政官は廃止された。

〔参考文献〕八木充「太政官制の成立」『律令国家成立過程の研究』1968,塙書房

井上光貞「太政官成立過程における唐制と固有法との交渉」『仁井田陞博士追悼論文集 1 前近代アジアの法と社会』1967,勁草書房

早川庄八「律令太政官制の成立」『続日本古代史論集』上 1972,吉川弘文館