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●太政官 だいじょうかん

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「だじょうかん」ともよむ。

 (1)日本古代の律令制において天皇のもとに神祇官・八省以下,中央・地方のすべての官司を指揮し政務を処理しうる最高行政機関。令制の太政官は,「則闕之官」(その人無くんば則ち欠く)という特殊な地位である太政大臣と左右大臣各一人,大納言4人,少納言3人と左右大・中・少弁各人一人,大・少外記と左右大・少史各二人,それに史生10人と左右史生各10人,左右管掌各二人,左右使部各80人,左右直丁各4人などで構成され,これに巡察使(常置せず)が臨時に任命されるという規定。これは養老職員令(『令義解』『令集解』)に明記されている人的構成であるが,大宝官員令もほとんど同文であったと考えられる(『令集解』)から,令制の太政官制は701年(大宝1)には制度として完成したわけである。この太政官制を機能的にみると,天皇の輔導の官を意味する太政大巨を頂点として,左右大臣(長官)と大納言(次官)とが政策審議機関で,大納言のもとに太政官三局として,少納言局は少納言(判官)・外記(主典)・史生の事務局であり,左・右2弁官局はそれぞれ大中少弁(判官)・大少史(主典)・史生以下の行政執行の事務局となる。カッコ内は令制諸官司に共通するカミ(統轄者)・スケ(カミの補佐)・ショウ(一般事務担当)・サカン(書記)の四等官の等級である。なお,弁官局の管掌は左弁官が中務・式部・治部・民部の4省,右弁官が兵部・刑部・大蔵・宮内の4省であるが,弁官局は8省に対し常時監督するのではなく,事務の内容によって分掌する原則であった。このような大宝・養老両令の太政官が武徳・貞観令以来の唐令の影響下に成立したことは,太政大臣が唐の三師三公の職権を兼有したような性格をもち,太政官の機能が唐の尚書・中書・門下の3省のそれを一つに兼ね合わせ,弁官局の8省管掌が隋制よりは唐制尚書省の都省(本省)統括の六部に近似するなどが知られるだけでも明らかであるが,しかし組織的な中央官制を総称して太政官と呼ぶこと自体が日本独特であるうえに,それを構成する官名・官司名・指揮系統もほとんど中国の制度とは異なるのであって,むしろ唐制の集権的官僚制度をさまざまに改変して太政官制を新たに整備したのである(仁井田陞『唐令拾遺』参照)。太政官の成立過程については,史料が断片的かつ僅少であって,意外に大部分が不明である。従来は法制史家の影響によって太政官近江令創出説が通説的見解とされてきたが,戦後『日本書紀』の史料批判が精緻をきわめるにつれ,体系的法典としての近江令の存在を否定する見解(青木和夫「浄御原令と古代官僚制」古代学3−2)が登場し,少なくとも天智朝における太政官の存在は疑問視されるようになった。もちろんこれに対し,通説もまた捨てがたしという立場からの反論がある。この立場での有力な見解は近江令時代を668年(天智天皇7=即位 I)から689年(持統3=称制終年)までと考えるから,『日本書紀』における「太政官」の初見が天武天皇崩御の686年(朱鳥1)の記事であるにもかかわらず,これを近江令官制,すなわち天智朝創出とみる傾向が今日もなお根強い。しかし,壬申の乱後の天武朝は,内外の文武官対策には熱心であるが,天智天皇の近江朝廷末年に任命した太政大臣・左右大臣はついに一人も置かず,また冠位制度や氏族対策を除いて前代の政治を継承したという根拠が乏しく,天武朝の時代に近江令の存在を想定することにはやはり無理があろう。そのため近年では,近江令問題を前提にしないで,天武朝の官制と持統3年から大宝1年までの浄御原令官制とをそれぞれ独自に考察する研究が盛行し,なかでも太政官に関しては,まず天武朝で,単一の官職組織される太政官(納言のみ)と大弁官大弁官のみ)が並存し,その下に法官(唐制六部の吏部,大宝令制式部省の前身−−以下この順)・理官(礼部,治部省)・兵政官(兵部,兵部省)・刑部(刑部,刑部省)・民官(民部→戸部,民部省)の6官を統括する純然たる事務官僚機関が創設され,次いで浄御原令で,天子輔導の太政大臣と国政審議の左右大臣との三大臣制のもと旧太政官と旧大弁官とを統合して新太政官とし,さらにその下に大・中・少の納言局と左右弁官局とに分けて,6官に宮内官・中務の2官を加えた8官を管掌するという,令制太政官制の前身官制がほぼととのったが,しかし納言局と弁官局および中務の職掌がそれぞれ明確に分掌の制度として確立するのは大宝令の制度をまたねばならなかったという新研究(早川庄八「律令太政官制の成立」続日本古代史論集上巻,「律令制の形成」岩波講座日本歴史2)が提起され,太政官制成立過程の問題に新局面をひらくことになった。なお,「太政官」を単一の官職のように記す史料に『小野毛人墓誌』『威奈大村墓誌』『建多胡郡弁官符碑』などが有名であるが,天武朝のみならず大宝令以後も同様の書法が存在したことは,「太政官」の性格の起源を考える上で興味深い。「太政官」という名称は,唐風志向の藤原仲麻呂が758年(天平宝字2)に一時「乾政官」と改めたほどであるが,同時に天智天皇藤原鎌足の顕彰に熱心な仲麻呂が天皇「考正一二制度一,創一二立章程一」(『続日本紀』)したといい,藤氏『家伝』を編集したことなども十分考慮にいれる必要があろう。太政官制はやはり,初唐の制度を摂取した天武朝において納言(モノマウスツカサ)を核とした天皇近侍の職制に出発し,それが浄御原令で弁官(オホトモヒノツカサ)を含む三大臣以下の組織的官制の総称として拡大し,さらに職掌を複雑に細分化して大宝令に定着したものと思われる。令制太政官の組織は複合的構造をもつ統合体であるが,大臣・大納言のほか令外の官として内大臣・中納言・参議(初め臨時,のち正官)も加わって最高の審議機関を構成し,国政の万般を総管するとともに諸司・諸国に太政官符・太政官牒(古くは『類聚三代格』,新しく『平安遺文』などに集録)などで詔勅などを発布した。これらの公文書の書式は公式令に厳格に規定され,そのとおり実行された。しかし,太政官の複雑な機能は半面に国政の形式主義を生み,平安中期以降の摂関政治や院政とともにしだいにおとろえ,武家政権の時代にはいよいよ実質的意味を失って,その組織は単なる儀式の場として明治維新までつづいた。

 (2)内閣制度設置までの明治政府の最高行政機関。明治の太政官がそもそも形骸化した令制太政官復興の性格を有したことはいうまでもないが,名称の初見としては1868年(明治1)公布の政体書に〈天下ノ権力,総テコレヲ太政官ニ帰ス〉とあり,しかもまた〈太政官ノ権力ヲ分ッテ,立法・行政・司法ノ三権トス〉ともあるから,概念的には欧米の三権分立主義を加味したものでもあった。ただ当初は,漠然と議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の7官の総称にすぎなかった。しかるに,版籍奉還直後の1869年(明治2)の官制改革で神祇・太政の2官と民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の6省が置かれると,左右大臣・大納言・参議を構成メンバーとする太政官は実質的に6省を統括するようになり,さらに1871年(明治4)の官制改革で太政官を分かって正院・左院・右院としたが,太政大臣と納言(実質は左右大臣)・参議若干名を擁する正院がひとり太政官の権限を掌握することになり,1873年(明治6)の改正では正院の権限はさらに拡大された。次いで征韓論分裂後,参議が行政長官としての諸省の卿を兼任するようになって左・右両院が廃止,1877年(明治10)には正院も廃止されたが,太政官はなおかつ行政省庁の上に立つ最高官庁であった。しかし,1881年の政変(明治十四年の政変)後,憲法制定・国会開設への準備が進められる一方で参議会議の内閣化も醸成され,ついに1885年(明治18)12月22日太政官達69号により明治の太政官制度は廃止され,新たに内閣制度がこれに代わることになった。復古的な太政官制度は,藩閥官僚の権力闘争と自由民権運動の高揚とにより終焉したのである。