●第三共和政 だいさんきょうわせい
ヨーロッパ フランス共和国 AD
1870年9月2日,ナポレオン3世がメッス(メッツ)で捕虜となり,退位宣言をしたとの報に,パリ民衆は4日臨時国防政府の樹立と共和政の宣言を獲得するとともに,自らはパリ20区中央委員会を組織した。しかし国防政府は,プロイセン軍の圧倒的優位とパリ民衆の革命的高揚を前に休戦の道を探り,1871年1月に休戦条約,2月に仮講和条約を結ぶ。ボルドーに移転した国防政府のこの裏切りと2月総選挙による保守的国民議会に憤激したパリ民衆は,愛国・抗戦を唱えて国民衛兵中央委員会を組織した。国防政府(行政長官はティエール)は議会をヴェルサイユに移し,パリの動きを抑えにかかる。3月18日のパリ民衆の蜂起,コミューン議会選挙をへて28日コミューン宣言がなされる。小親方・職人中心の民衆による都市自治要求のパリ=コミューンは,20区中央委・国民衛兵中央委,インター派・ブランキ派などの政治組織,そして民衆クラブなどの相互作用の中で,ジャコバン主義とサン=キュロット主義,祝祭的性格と革命的性格を併せもった。しかしヴェルサイユ軍とドイツ軍の包囲・攻撃を受け,「血の1週間」と呼ばれる市街戦の末,5月28日にパリ=コミューンは72日間の生命を終えた。国民議会では王党派が圧倒的多数を制していたが,正統王朝派とオルレアン派の対立が絡んで政体の確定は難航。王党派連合は,保守的共和政を志向するティエールを更迭,マクマオンを大統領に据えて王政復古をめざすが奏効せず。1875年1月,ガンベッタの努力で伸長著しい共和派とオルレアン派の提携により,わずか1票差で共和政体が採用された。しかしこれを担う勢力は弱体であって,ガンベッタ内閣のように,基本目標実現を適当な時期まで延期するオポルチュニスム政治が行われた。とはいえフェリー内閣期に,共和政を廃止しえない旨の憲法改正が1884年になされ,また初等教育の3原則(無償・義務・世俗性)が樹立されるなど,共和政の礎石が固められていった。1880〜90年代の植民地拡大努力の結果,チュニジア・インドシナなどが保護領化された。しかし議会政治の枠外で,植民地征服のための財政負担と1882年以来の不況にあえぐ大衆が対独復讐将軍に期待を託したブーランジェ事件(1886),パナマ運河会社疑獄事件(1892〜93)による反ユダヤ主義感情と対独復讐感情が結合したドレフュス事件(1894〜1906)などが政治・政会を揺るがした。オポルチュニスムに対しては,社会的民主主義の性格をもつ1869年のベルヴィル綱領の実現をめざす急進主義(ラディカリズム)がクレマンソーらによって推進され,1901年には第三共和政の要(かなめ)政党たる急進社会党が結成される。しかしその立場は,ゲート派・ジョーレスら独立派など四分五裂していた社会主義者の統一社会党(第2インターフランス支部)結成(1905)への動き,労働総同盟(1895年結成)の実質的統一(1902)とアミアン憲章(1906)による政党運動との分離という事態を前に,しだいに保守・中道政党化していった。
世紀転換前後の20年は,重化学工業の成長・大銀行の発展と資本輸出の拡大に示されるように好況で,ベル=エポックと称される。しかしその背後には,植民地争奪をめぐるヨーロッパ諸列強の対立と植民地現地人の抵抗・悲惨が存在した。独・仏はタンジール事件(1905)・アガディール事件(1911)で衝突。統一社会党・労働総同盟は反戦主義の旗を掲げるが,好戦的ナショリズムの勢いは強く,バルカン問題に端を発する第一次世界大戦に際して神聖同盟の論理に呑み込まれる。産業・銃後の総動員体制を伴う長期戦化は,1917年にいたって厭戦・反戦気分を生じ始めるが,ペタン・フォッシュ将軍を起用したクレマンソーの戦争指導を連合軍支援により勝利(1918年11月,休戦協定調印)。
戦後,1919年総選挙によるブリアン・ポワンカレらのブロック=ナシオナル政権は,労働大攻勢を乗り切る。逆に社会党・労働総同盟は分裂し,共産党(1920)・統一労働総同盟(1922)が誕生。荒廃した産業・経済の復興と大陸での覇権確立のため対独強硬策がとられ,賠償問題ではルール占領(1923〜25)の挙に出た。ようやく1928年のポワンカレ・フラン採用・金本位制復帰によって経済は繁栄をみるが,1929年秋以後の世界恐慌が波及するまでの束の間のことであった。フランスの産業・人口構造のゆえに,遅れて1931〜32年に,しかも緩慢に波及した恐慌に対して,急進社会党政権は有効な措置となりえない。1934年2月26日事件をファシズムの脅威と受けとめ左翼は人民戦線を結成し,1936年選挙で勝利をおさめ,ブルム内閣が誕生する。しかし資本の反撃・労働者大衆の意識の冷却の中でブルム内閣は後退から辞任へと追い込まれた。イギリスと歩調をあわせた対独宥和政策はミュンヘン協定(1938年9月)に結実するが,ナチス=ドイツの野望は1939年9月のポーランド侵入を契機に第二次世界大戦をもたらした。1940年5月のドイツ軍のフランス侵入に対してなす術なく,ペタンの登場を待つだけであった。