50音順    検 索

●第三革命 だいさんかくめい

アジア 中華人民共和国 AD 

 中華民国成立後,1915年,袁世凱の帝制復活・帝位就任に反対し,雲南からおこった運動。1911年の武昌蜂起を発端とする狭義の辛亥革命を第一革命,1913年に発生した袁による宋教仁の暗殺および江西都督李烈釣・広東都督胡漢民などの免職をめぐる反袁運動を第二革命とする場合の呼称。護国軍起義・雲南護国運動などともいう。

【袁世凱と第二革命】袁世凱は,第二革命にたちあがった南京・江西・広東・安徽・福建などの反対勢力を圧倒的軍事力で鎮圧した。そののち,国会において自らを正式の大総統とする選挙を強行し,国民党を解党させ,1914年には臨時約法(旧約法)を停止し,大総統の権力強化をねらった新約法を制定した。これら一連の経過により反対派は分裂・沈黙し,袁に政治上・軍事上の権力が集中し,辛亥革命によって達成するかにみえた共和国新中国への希望は完全に破壊され,革命の失敗が明白なものとなった。袁は儒教の国教化をはかる尊孔運動を行い,思想統制をめざすなど種々の反動的諸政策を次々とうちだした。また,1915年にはアメリカ人顧問グッドノーに,中国における共和制の実施を不可とし,君主制復活を行うべきことを内容とする論文を発表させ,また,楊度に籌安会を組織させて世論形成を演出し,自らが皇帝になる準備を着々と進めた。同年12月初めには,民意をくみとることをよそおうため国民代表大会を結成し,そこでの投票による推戴を応諾するというかたちで,翌1916年1月に即位式を行い,年号を洪憲とすることを決定した。ところが袁の皇帝推戴受諾後の12月下旬,雲南都督唐継?らはこれに反対の意志表示を行い,麾下の軍事勢力を護国軍と改称して雲南の独立を宣言した。1916年に入って貴州・広西・広東などがこの動きに呼応し,北方の袁を中心とする北京政府と,これに反対する南方の諸勢力の対抗関係が形成された。袁は南方の動きに対し,3月に帝制取消しの声明を発表するなどして事態の鎮静化をはかったが,6月病死した。この後,北方では黎元洪が大総統となり段祺瑞が内閣を組織し,旧約法の回復などが南方とのあいだで合意され,南北の統一がはかられた。これで共和国の理想が再び輝きをとりもどすかにみえたが,北方派の内部分裂などをへて,軍閥が無原則な連合と,なりふりかまわぬ抗争を繰り返す暗黒の時期へと突入する。

【反袁運動と第三革命】第三革命を発動した中心勢力は,雲南都督唐継?の統括下にあった新軍,とくに中華民国成立以後の諸状況下で革命的な民主主義思想を受け入れた中下級の士官たちであり,その周辺に,第二革命以来中華革命党を組織して反袁運動を継続していた孫文などや袁によって解散させられた国民党系勢力,唐の前任者で雲南の新軍に影響力をもった蔡鍔,蔡と人脈関係を有した進歩党系の梁啓超などがいた。ただし彼らは袁の帝制復活に反対するという一点において結集したのであって,たとえば梁は,共和制下の立憲政治を求めるという考え方がその底にはあったにせよ,皇帝としての袁に反対はしても,中華民国大総統としての袁に反対する考え方はもっていなかった。南方派は勢力の結集をはかって1916年5月,臨時政府としての性格をもつ軍務院を梁の構想にもとづき組織する。だが,袁が死去し南北の妥協が進展し始めると,梁は軍務院の解消を画策して,南方派勢力の結集を継続していこうとした国民党系の勢力と対立した。袁の死によって結果的に帝制復活の阻止は達成されたが,成果はそれだけに終わり,社会変革への道は容易に切り開かれなかった。このような運動の不徹底性は,これをになった勢力が寄り合い所帯的であったことを背景とし,梁と国民党系との対立にみられたように,それぞれが袁の帝位就任阻止という大目的以外はさまざまな思惑を包持していたこと,当時昂揚をみせつつあった民衆の運動の熱気を革命へ向けて組織化しえなかったこと,または,それへの取り組みが立ち遅れたことに起因している。

〔参考文献〕寺広映雄「雲南護国運動について」『中国革命の史的展開』1979,汲古書院