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●大黒屋光太夫 だいこくやこうだゆう

アジア 日本 AD1751 江戸時代

 1751〜1828(宝暦1〜文政11) 神昌丸船頭。1751年,伊勢白子町南若松に裕福な商家の子として生まれる。1775年(安永4)の署名に亀屋兵蔵とあれば亀屋の養子となっている。24歳のころである。通称大黒屋光太夫。ときたま幸大夫と書く。光太夫の好学的な点については,亀井高孝の『光太夫の悲恋』に詳しい。1782年(天明2)12月神昌丸船頭として鳥羽で風待ちし出帆,遠州灘で嵐にあい,約8カ月漂流したのち,ロシア領アムチトカ島に漂着。そののち,科学アカデミー会員キリル=ラクスマンの知遇を得,1791年(寛政3)彼に随行してペテルブルグに上京,5月25日女帝エカテリーナ2世に拝謁した。語学力を認められた彼はパルラス辞典の改訂に力があった。同年9月25日付をもって女帝は勅令を下し光太夫の日本送還を断行した。そのあいだの事情は『北槎聞略』に詳しい。遣日使節に選ばれたのがキリルの二男アダム=ラクスマンであった。この勅令には修交という政治上の配慮を伴っていたことはいうまでもない。1792年(寛政4)9月16日,根室に生還,翌年8月上府,ついで1794年(寛政6)6月番町薬園に収容され1828年同園内で死す。78歳であった。

〔参考文献〕亀井高孝『大黒屋光太夫』1970,吉川弘文館(3版)

亀井高孝・村山七郎編『北槎聞略』1965,吉川弘文館

亀井高孝『光太夫の悲恋−大黒屋光太夫の研究』1967,吉川弘文館