●太閤検地 たいこうけんち
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豊臣秀吉が実施した検地。天正の石直し・文禄の検地ともいう。太閤とは一般に関白の職をやめた人の尊称であるが、秀吉は1591年(天正19)関白職を養子秀次に譲ったのち、とくに好んで自ら太閤と称したので、太閤といえば秀吉のこととなった。それで彼の実施した検地も、1591年以前の分を含めて太閤検地と呼ばれるようになった。この太閤検地は、わが国の土地制度を大きく変革し、政治・経済・社会・文化に多大の影響を与えた。その実施状況・内容・意義は以下のようである。
【実施状況】秀吉はその主織田信長から1573年(天正1)湖北(滋賀県北部)の浅井氏田領を給付されると、ただちに杉原弥七に命じて小谷付近を検地し、ついで1580年(天正8)中国征伐を命じられて播磨(兵庫県)を平定すると、姫路付近を検地している。これらは信長の部将としての立場の検地であるが、そののち1582年から秀吉は独自の立場で次々に各地を検地を行った。すなわち、1582年には明智光秀を破って手に入れた山城(京都府)・丹波(京都府・兵庫県)を、翌1583年には柴田勝家を滅してその旧領越前・若狭(以上福井県)や山城・近江・河内(大阪府)などを、1584年にも山城以下の諸国を、1585年には根来や四国を平定して紀伊(和歌山県)・河内そのほかを、1587年には島津氏を討って九州を、1590年には小田原の後北条氏を征して関東から奥羽を、それぞれ検地している。また1592年(文禄1)からの朝鮮の役のさいは朝鮮でも検地を実施する予定だったという。秀吉は以上のように各地を次々に征服するごとに、それらの征服地を検地して確実に掌握し、一部を直轄地、残りを部将に給付した。また大名を転封した場合にも検地を実施している。さらに1591年(天正19)から1598年(慶長3)にかけては、朝鮮出兵の準備ないし国内安定のため、太閤政権の基礎を固める目的で各地を再三検地し、1598年8月の越前検地を最後としている。以上が太閤検地の実施概要であり、これをまとめると別表のようである。
【検地役人】検地実施のさいは、まず方針ないし条目が示され、ついで奉行以下の検地役人が任命組織された。検地奉行に任命されたおもなものは、浅野長吉(長政)・石田三成・増田長盛・長束正家・片桐且元・小堀新介らであり、概して文治派の部将である。1国全部ないし数カ国に及ぶ大規模な検地には、何人かの奉行とともに、それらをまとめる惣奉行が任命された。1585年(天正13)の紀伊検地では小堀新介が、1593年(文禄2)の日向(宮崎県)・大隅・薩摩(以上鹿児島県)の検地では石田三成が、1598年(慶長3)の越前検地では長束正家が、それぞれ惣奉行に任命されている。惣奉行・奉行は不正をしないなどの誓紙を提出して任にあたった。奉行のもとには帳付・竿取・見付役などの下役がいて実際の検地業務を行い、各村の庄屋・名主らが検地役人の案内役を勤めた。以上のほかに、秀吉の意図にそって諸大名が検地する場合もみられた。加藤清正の1589年(天正17)肥後(熊本県)検地、毛利輝元による1590〜91年の中国地方の検地、蒲生氏郷の1594年(文禄3)岩代(福島県)検地などがそれであり、これらの場合にも奉行以下の検地役人が組織された。
【実施内容】検地のため村に入った検地役人の一行は、村の一端から全村域にかけて田畑屋敷を一筆ごとに測量して面積を把握し、各筆の等級や分米・名請人を決めていた。その場合、あらかじめ知行主や村方に書き出させた指出を利用して指出検地とし、実際の測量や等級・面積・分米・名請人の決定を省略することもあった。しかし、一般的には次の要領で等級・面積・分米・名請人などを決め、それらを一筆ごとに連記して最後に総面積・村高を明らかにした検地帳が3部作られ、奉行がそれらに署名して1部を秀吉に提出し、残りを知行主・村方へ渡した。[1]田畑の等級については土地の肥痩・灌漑の便否・地形地質の良否などを考慮して上・中・下・下々の4等のいずれかに格付けされた。[2]面積についてみると、従来の面積の単位は1間四方を1歩、120歩を小、180歩を半、240歩を大、360歩を1段としたが、それらは1間の長さが種々であるため統一の単位とはいえず、ほかに代(しろ)・刈(かり)・蒔(まき)などの単位も用いられた。太閤検地では、このように不統一な従来の長さ・面積の単位を統一して、曲尺の6尺3寸を1間と定め、1間四方を1歩、300歩を1段として、田畑屋敷の面積を新たに把握した。[3]分米把握の基礎である枡(ます)も、従来はさまざまな形・大きさのものが使用され不統一であったので、太閤検地では京都を中心に上方で使われていた京枡を公定枡とし、これで分米が決められた。[4]分米は従来までは上分米つまり年貢米を意味したが、太閤検地では年頁米ではなく公定生産高とされた。すなわち、太閤検地およびそれ以降の分米は斗代に面積を乗じたものであり、斗代は石盛のことで、政治的経済的条件を考慮し、坪刈して決められた段あたり公定生産高である。斗代は田畑屋敷の等級ごとに決められた。条目では、上田1石5斗、中田1石3斗、下田1石1斗、上畠屋敷1石2斗、中畠1石、下畠8斗、下々は見計らいなどとある。分米はこれらの斗代に各筆の面積を乗じて決められ、把握されたのである。[5]名請人についてみると、太閤検地では室町時代の田畑の複雑な権利関係にある農民のうち、作職(耕作権)を所有して領主に年貢を納める農民を、名請人として検地帳に登録し、そのほかの農民の権利を排除した。秀吉が1574年(天正2)に出した下知状に〈在々所々作職の事、去年作毛の年貢納所候ともがら、相抱うべき事〉とある。また石田三成が1596年(文禄5)に出した村掟に〈田畑さくしき(作職)の儀は、比さき御けんちの時、けんち帳にかきのり候者のさハき(裁き)につかまつ(仕)り〉とある。これらから明らかなように、太閤検地では作職を所有して貢納する農民が名請人として把握され、登録されたのである。
【歴史的意義】秀吉が上述のように各地を征服するごとに検地したことは、征服地を確実に掌握して全国を統一する基礎となり、同時に従来の複雑な土地関係を整理して土地制度を一新させ、新しい体制を将来させた。すなわち、室町時代までは田畑に対する大名や寺社本所の領主権も、農民の権利も、職の分化と呼ばれて複雑に分割されていたが、秀吉の全国統一と上述のような内容の検地とにより、領主権は統一されて一円化し、また農民の権利は有力農民の加地子得分権などが没収されて、検地帳に登録された名請人の作職(耕作権)のみに整理された。つまり太閤検地は田畑各筆に1領主・1農民という一元的な領主−農民関係を樹立させ、すっきりした封建体制を将来させたのである。それは小農民の自立を促す太閤検地の革新性を示すとともに、石高制の成立と相まって兵農分離の基礎となった。すなわち、太閤検地が把握した分米つまり石高のうち、作徳分は農民に、残りはすべて領主が収取することを原則としたから、土豪や有力農民は従来のように中間搾取して武士化・領主化することが難しくなり、兵農分離がおし進められた。また太閤検地によって決定され把握された石高は、農民に対しては年貢賦課の基礎となり、大名や家臣に対しては知行給付・軍役賦課・家格などの決定基準となり、石高制として長く幕藩体制の主軸となったのである。なお、太閤検地において上述のように長さ・面積の単位が曲尺の6尺3寸1間、1間四方1歩、300歩1段と定められ、枡も京枡に統一されたことは、度量衡の制度や経済・文化の歴史のうえで重要な意義をもつ点に注目すべきである。
〔参考文献〕宮川満『太閤検地論』3冊、1957〜63、御茶の水書房
安良城盛昭『幕藩体制社会の成立と構造』1959、御茶の水書房