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●大航海時代 だいこうかいじだい

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 1400年ごろから1650年ごろまでの,ヨーロッパ人による海外進出が始まってから,新旧両大陸においてヨーロッパ諸国の勢力範囲が確定するまでの時期をさす。

【背景】1300年ごろの西ヨーロッパはビザンティン帝国支配下の地中海東部,マムルーク朝支配下の西アジア・エジプトに対して金・銀・銅・奴隷などを輸出し,香料など東方の産物を輸入する,どちらかといえば経済的には後進的な地域であった。西ヨーロッパ地域では地中海東部地域を起点とし,地中海を西にむけて横断し,ジブラルタル海峡から大西洋に出て,ヨーロッパ大陸の海岸に沿って北上し,バルト海に入ってロシアに到達する海上貿易ルートが国際経済の大動脈であった。この貿易ルートで活躍していたのは,ユダヤ人,およびベネチア・ジェノバ出身のイタリア人商人であった。彼らは地中海東部の海岸地帯で商館の経営,株式会社の運営,プランテーションの経営,武装した艦隊による交易活動など,大航海時代の基本的なノウ=ハウを実地にあたって身につけていた。ベネチアとジェノバはこの地中海東部地域ではげしく競争していたが,1381年にベネチアが勝利をおさめたので,ジェノバの商人はこれからのち主として地中海西部やイベリア半島で活躍し,上に述べたようなノウ=ハウを各地に伝えた。

 1347年から西ヨーロッパでは黒死病が大流行し,人口は一時30%近くも減少した。このため西ヨーロッパの人口過剰状態は一時的に解消し,人々の生活水準が向上する一方,世の無常を感じて一種の終末的な考え方が流行し,現実生活を享楽する風潮が高まった。その結果として贅沢品である東方の産物,とくに香料に対する需要が高まった。しかしその代価として西ヨーロッパから輸出される商品は金・銀・銅などに限定されており,そのため西ヨーロッパは深刻な経済不況に陥った。

【第1期 1400〜80】14世紀のイベリア半島はポルトガル・カスティリャアラゴン・ナバラのキリスト教王国,グラナダのイスラーム教国に分割された。キリスト教国のうちポルトガルは最も早く国土統一を成し遂げたが,面積・人口の点で圧倒的な大国であるカスティリャとのあいだに絶えず緊張があった。ポルトガルがカスティリャに対抗するためには,西方にむかって大西洋に進出するか,あるいは南方にむかってアフリカ大陸に進出し,そこから必要な富を手に入れなければならなかった。大西洋への進出は遠洋漁業という形をとったが,アフリカ大陸への進出は武力による征服の形をとった。すなわち1415年にポルトガル国王ジョアン1世はモロッコのセウタを占領し,ここに根拠地を建設した。これにつづいて1433年にはエンリケ航海王子は国王からアフリカ大陸沿岸における軍事行動と交易の権利を与えられた。彼はたびたび部下をアフリカ西海岸に派遣し,黄金の産地であるギネア地方に到達させようとした。その結果1449年にはブランコ岬近くのアルギン島に最初の商館が開設された。一方これと並行して大西洋のマデイラ,アゾレス諸島にも植民が行われた。これらの島々ではサトウキビやブドウがプランテーション方式で生産された。これにはアフリカ西海岸で入手した黒人奴隷が使用された。こうしてのちにスペインが新大陸で行ったプランテーション経営の原型が生まれた。

 カスティリャもポルトガルに対抗するために海上に進出したが,その進出はカナリア諸島に限られていた。これは国内で混乱がつづいたためであった。しかし1469年にはカスティリャ女王イサベルアラゴン王フェルナンドの結婚によって両国は統一され,スペイン王国が成立した。この時期はまたポルトガルとカスティリャ(のちスペイン)とのあいだに王位の相続をめぐって対立の始まった時期である。しかし両者の対立は1479年のアルカソヴァス条約で一応の終結をみた。この結果ポルトガルはアフリカ西海岸地帯の領有を,スペインはカナリア諸島の領有を認められた。こうしてポルトガルはアフリカ西海岸を南下し,スペインは大西洋を西進するという将来の方向が決定された。

 この時期には大航海を支える科学技術の分野でも大きな発展があった。マルコ=ポーロの『東方見聞録』を典拠とする東方に関する知識はすでに1385年に描かれたカタロニア地図に取り入れられ,また航海用のポルトラノ図作成の技法も発達した。船は地中海型のガレー船・北海型のコブ船を統合した型式のナウ・カラベラがつくられた。観測器具としては羅針盤のほかに四分儀が使用された。

【第2期 1480〜1529】アルカンヴァス条約の結果,ポルトガル−スペイン両国のあいだに一応の平和が確立された結果,両国は競って海外進出に乗りだした。まずポルトガルでは1481年にジョアン2世が即位し,一時中断されていたアフリカ西海岸での探検・植民活動が再開された。航海技術の面では四分儀の代りにイスラーム世界から学んだアストロラーベが天体観測器具として使用されるようになり,また簡単な器具としてはヤコブの杖が使用されるようになった。また低緯度地域では太陽の高度から緯度を算出するために赤緯表が必要であるが,これが航海暦の形をとって編集された。実際の航海活動は国家の独占事業とされたのがこの時期の大きな特長である。1480年にはギネア海岸にエルミナ城が建設され,この地域における黄金・象牙・奴隷貿易の拠点となった。

 1481年ごろジェノバ人コロンブスがポルトガルの宮廷に現れ,西回りで中国や黄国の国ジパングに到達できると主張し,自らその航海を組織したいと提案した。ジョアン2世は彼の提案を現実性なしとして却下したが,のちにマルコ=ポーロの『東方見聞録』を読んで考えをあらため,すでにスペインに移っていたコロンブスを呼びもどそうとした。しかしこの試みは成功せず,ジョアン2世はとにかく一刻も早く東回りで中国・日本に到達しようとした。1486年にはニジェール川流域にあったベニン王国に接触し,ここでアフリカ大陸の奥地にキリスト教王国(エチオピア)のあることを知った。ジョアン2世はこれを伝説上のキリスト教徒の王プレスター=ジョンの王国であると考え,彼と接触しようと試み,1487年にバルトロメウ=ディアスを海路から,ペロ=デ=コヴィリヤンを陸路で同地に派遣した。ディアスは嵐の岬(のちに喜望峯と改称)を発見して帰国したが,コヴィリヤンはエチオピアに到達し,国王にひきとめられたため,帰国することができなかった。

 スペインは1482年からグラナダのイスラーム王国に対する攻撃を再開し,国土統一運動の最後の段階に入っていた。コロンブスはポルトガルを去ってスペインに移り,スペイン王室に西回りの航海を提案した。王室は戦争に原因する財政難を解決するために,1492年になって彼の提案を採用した。彼は王室と親しい関係にある改宗ユダヤ人などの出資を得て船隊を編成し,1492年グラナダ陥落の直後に大西洋横断の航海に出発した。

 コロンブスはイスパニオーラ島などを発見し,これを中国・日本などの一部であると誤解して帰国した。コロンブスの成功はポルトガルに大きな衝撃を与えた。ジョアン2世はただちにインドにむかう船隊の準備を始めたが,1495年に彼が死亡すると,計画はいったん中止された。一方この間にスペインはコロンブスの成功にもとづいて,ローマ教皇にスペイン・ポルトガル両国の勢力範囲の確定をもとめた。これはのちに両国間の交渉によって修正され,1494年にトルデシリャス条約が結ばれた。それによると,ヴェルデ岬の西500レグア(約2,040km)の線を境界として,その西側で発見された土地はスペインの,その東側で発見された土地はポルトガルの領土とすることとされた。

 1497年マヌエル王は4隻の船隊を編成し,ヴァスコ=ダ=ガマを司令官としてインドにむかわせた。ガマの船隊は翌年インドのカリカットに達し,胡椒を積荷して1499年に帰国した。翌1500年にはペドロ=アルヴァレス=カブラルの船隊が派遣された。一行は途中ブラジルを発見し,インドに到達してからはイスラーム商人の支援を受けたカリカット王と対立した。このためカブラルは当時カリカットと敵対関係にあったコーチン王と同盟関係を結び,コーチンに商館を開設して,ここを根拠地とした。

 東方進出に対するマヌエル王の基本方針は一つにはイスラーム商人と対立しない形でインド西海岸の諸港で貿易を行うことであり,また一つにはできるだけ早く丁子などの産地であるモルッカ諸島に到達し,スペインに対して優先権を主張することであった。マヌエル王はインドにおけるポルトガル人の征服,貿易活動を統轄するために「インド領」を設置し,その初代副王としてフラシシスコ=デ=アルメイダをインドに派遣した。アルメイダは上に述べたマヌエル王の方針を忠実に実行に移したが,彼のあとを継いだアフオンソ=デ=アルブケルケはむしろイスラーム商人によるインド洋の国際貿易支配を打破しようとした。彼は1510年にゴアを占領し,さらにアデン・ホルムズを攻撃し,ホルムズを朝貢国とした。また1511年にはマレー半島のマラッカを占領し,翌年モルッカ諸島に船隊を派遣し,1513年には中国に船隊を派遣した。

 ポルトガルはこうした成果にもとづいて,スペインに対してトルデシリャス条約の改訂を求め,境界線の適用は大西洋地域に限り,東回りで発見された土地はすべてポルトガルの領土とするという内容のサラゴサ条約が1514年に結ばれた。

 ポルトガルの成功はこのようにはなばなしいものであったが,それに比べるとスペインの活動はあまり目立つところがなかった。まずコロンブスの発見した土地が中国や日本ではなく,まったくの新大陸であることが徐々に明らかになってきた。コロンブスの野望とは正反対に,1501年にニコラス=デ=オバンドが新大陸の総督に任命され,スペイン政府による直接の植民地支配が始まった。1503年には一定の数の原住民を入植者に割当てるエンコミエンダ制が施行され,同時に本国には新大陸通商院が設置された。しかしエンコミエンダ制による原住民の使役は,彼らの人口減少を招いたため,1512年には原住民の保護と教化に重点を置き,労役義務を制限するブルゴス法が発布された。これがこののちのスペインの植民地統治の基本法となった。この結果イスパニオーラ島やキューバの金鉱で使用される労働力が不足し,これを補うために1517年から組織的なアフリカ黒人奴隷の輸入が開始された。偶然ではあるが,この1517年からは,キューバやイスパニオーラ島で金鉱が掘りつくされたために,プランテーション制によるサトウキビの生産が始まった。こうして,ヨーロッパ(穀物・織物・雑貨)→アフリカ(黒人奴隷)→新大陸(黄金・砂糖)→ヨーロッパという三角貿易が始まり,これが19世紀にいたるまで世界商業の基本構造となった。

 カリブ海地域でのこうした植民地経営の発足と並行して,新大陸本土への進出も試みられた。その最大のものは1518年に始まったエルナン=コルテスメキシコ遠征である。彼は1519年にアステカ王国を滅ぼし,莫大な黄金を入手した。新大陸におけるスペイン人のはなばなしい活動の背後には,本国スペインの悲惨な現実があった。スペインでは1492年のグラナダ征服以降,イスラーム教徒とユダヤ人に対する弾圧が始まり,彼らの多くが国外に移住した。彼らは商人や手工業者であったため,スペイン国内では商業や手工業生産が不振となった。そればかりでなく,新大陸から輸入された黄金で北ヨーロッパなどから穀物を輸入するようになったため,農村も荒廃し,経済は新大陸からの輸入に依存するようになった。

 1516年にスペインではカルロス1世が即位した。彼は1519年に神聖ローマ帝国皇帝となり,ヨーロッパ各地に散在する領土を支配しなければならなくなった。このため国家財政の新大陸からの輸入に依存する度合いが高まった。

 ポルトガルの場合と同様に,スペインにとってもモルッカ諸島への到達は,領土支配の優先権を主張するために重要なことであった。すでに1505年には西回りでモルッカ諸島に到達しようという試みがなされたが,1519年にはマゼランの船隊がそのために出発し,ホーン岬をまわって南太平洋に出て,1521年にモルッカ諸島に到達した。ただしマゼランは途中フィリピンで原住民によって殺された。

 マヌエル王はマゼランの出発を知り,大急ぎで船隊を派遣し,モルッカ諸島に要塞を建設しようとしたが,その到達はマゼランの船隊に一歩おくれてしまった。このため両国の間にモルッカ諸島の領有権をめぐって対立が生じたが,1529年になってスペインは財政難のために領有権をポルトガルに売却し,その結果バヤドリード条約が結ばれ,両国の勢力範囲が確定した。

【第3期 1530〜95】この時期スペインの新大陸における征服活動でもっともめざましいのはフランシスコ=ピサロによるインカ帝国の征服(1531〜32)である。もっとも新大陸における“征服”の時代はほぼこれで終わり,以後はメキシコ副王とペルー副王を頂点とする中央集権的な植民地統治の時代に入った。スペインの支配地域はさらに拡大し,北アメリカ大陸ではテキサス・フロリダ・カリフォルニアなど,また1569年以降はフィリピンにも及んだ。フィリピン進出の目的は中国・日本とモルッカ諸島にむかう航路の基地を獲得するためで,フィリピンの植民地化が始まるのはややのちのことであった。中国−フィリピン−メキシコ間の貿易のうち,フィリピン―メキシコ間はガレオン貿易と呼ばれた。

 1545年ペルーのポトシ銀山が発見されると,そこで採掘された多量の銀はスペインを経由してヨーロッパに入り,いわゆる「価格革命」をひきおこした。ポルトガルはこの銀を入手し,インド産の胡椒,モルッカ諸島産の香料,中国産の絹織物・陶器の購入代金にあてた。その結果アジア諸国の経済構造にもきわめて大きな変化が生じ,いわゆる「世界経済」が成立した。

 ポルトガルのブラジル経営は1500年のブラジル発見の直後から始まっていたが,1530年にはそれが組織化されたものとなった。ポルトガルはブラジルを直接,国家の手で開発する方式をとらず,海岸地帯を五つの区域にわけ,その開発を希望者に請負わせるという,カピタニア制と呼ばれる一種の請負制度を施行した。ブラジルの主たる産物は染料に用いられたブラジル材と砂糖であった。

 アジアにおけるポルトガルの活動は,アルブケルケ以後は軍事的に大きな動きはみられず,ゴアとインドのグジャラート地方を結ぶ綿織物の貿易が非常に重要であった。1548年がポルトガルにとって一つの大きな転機となった。まずこの年,国王ジョアン3世はベルギーのアントワープにあった商館を閉鎖し,それまで次第に進行しつつあった国家財政の悪化が明白になった。またインドではこの年,積極的な軍事政策をとっていた副王ドン=ジョアン=デ=カストロがゴアで死んだことによって,これからのち積極的な領土拡張はいれられなくなった。これに代わって,イエズス会による布教活動がポルトガル政府支援のもとに各地で盛んに行われるようになった。イエズス会はアジア各地,とくにインド西海岸・スリランカ・モルッカ諸島・中国・日本で盛んに活動した。1557年にはマカオにポルトガルの貿易基地が設けられ,ここが中国・日本における布教と貿易の基地となった。

 ポルトガル人が日本に来航したのは1543年のことであるが,この時,日本に伝えられた鉄砲とその製造技術は日本の歴史に革命的影響を与えた。ポルトガル船は1571年に開港し,イエズス会の所領となった長崎に来航した。日本は鉄砲などヨーロッパ製の武器のほか,中国産の生糸・絹織物・陶器をポルトガル船から多量に購入した。その見返りとして輸出されたのは,銅・穀物・奴隷であったが,まもなく国内の金銀鉱山での金銀の産出がヨーロッパ技術の導入で飛躍的に上昇し,新大陸につぐ金銀の輸出国となった。このため中国(マカオ)−日本(長崎)間の貿易はポルトガルにとってきわめて重要となった。なおポルトガルは1580年から1640年までスペインに併合されていたが,植民地行政は以前のままに分かれていた。

 1570年以降スペイン帝国の勢力は下り坂となった。その一つの理由は1568年に始まったオランダ独立戦争にともなう軍事費の増大であるが,国内経済の悪化・国土の荒廃・行政の硬直化もみのがせない。また1576年に新大陸では伝染病が大流行して人口は減少し,それにともなって銀の生産・輸出が減少した。このため,新大陸では毛織物・ブドウ酒の生産が試みられるようになり,スペイン本国と植民地との関係に大きな変化が生じた。

 この時期にはまたイギリス・フランス・オランダの海外進出が始まった。これらの諸国はみな反スペイン的な政策をとっており,その一環として,まず旧大陸の北岸をへて中国に達する北東航路,新大陸の北岸をへて中国に達する北西航路の開発を試みたが,いずれも氷と寒さのために失敗した。

 イギリスはまたすでに1550年代からヨーロッパ―アフリカ―新大陸を結ぶ三角貿易に進出し,新大陸に黒人奴隷を供給して利益をあげる一方,1570年代以降はフランシス=ドレークなどの私掠船隊がスペインの商船隊を盛んに襲撃した。このほか北東航路・北西航路の探検もつづけられ,また1584年にはウォルター=ローリーによるヴァージニア植民地,1595年には同じくローリーによるオリノコ川でのギネア植民地の建設が行われた。こうしたイギリスの海上進出に対してスペインは1588年に無敵艦隊を送ってイギリス本土を攻撃したが,かえって敗北を喫した。オランダもその独立戦争の一環として,海上でスペインの船隊を激しく攻撃した。1585年アントワープがスペイン軍に占領されると,同地の商人がアムステルダムに移住し,アムステルダムが西ヨーロッパの国際貿易の中心地となった。

【第4期 1595〜1650】オランダはスペインに対する経済的依存を脱却するため,積極的に海外貿易に参入した。1594年オランダはアフリカ―ブラジル―ヨーロッパの三角貿易に参入し,またカリブ海域でスペインの植民地を武力で攻撃した。またこの年「遠方会社」が設立され,1595年にはジャワにむけて最初の船隊が派遣された。これと同時にオランダ人ヤン=ハイヘン=ファン=リンスホーテンの『東方案内記』が刊行され,世界全体におけるスペイン・ポルトガルの植民地に関する情報と航路の詳細がはじめて公開された。

 ジャワに派遣された船隊は1596年にジャワのバンタムを訪れて帰国した。その直後多数の会社が組織されたが,1602年にはこれが合同してオランダ東インド会社が設立された。会社ははじめモルッカ諸島を中心に活動していたが,1619年に総督ヤン=ピーテルスゾーン=クーンによって現在のジャカルタの地に根拠地が建設され,バタヴィアと命名された。会社はモルッカ諸島からポルトガル人を駆逐することはできたが,チモール島とマラッカを占領することはできなかった。またインド西海岸でもポルトガル人に対抗することはできなかった。しかし会社はシャム(タイ)・中国・日本のあいだの貿易には積極的に進出し,1636年には江戸幕府に説いて鎖国令を発布させ,ポルトガル・スペインを日本貿易から排除した。したがって切支丹禁教・鎖国令は日本国内のみの事件として考えることはできない。オランダはこのほか北アメリカ大陸にも進出し,1614年にはニュー=アムステルダム(現在のニューヨーク)を建設した。

 新大陸におけるイギリスの進出はカリブ海(1604以降)・ヴァージニア(1607以降)・ニューファウンドランド(1610以降)・ニューイングランド(1620以降)で行われた。ニューイングランド・ヴァージニア植民地は農業を行っていたが,その産物はカリブ海地域などのスペイン植民地に輸出されており,その限りにおいてイギリスの新大陸植民地はスペインの植民地に対して補足的な役割を果たしていたということができる。これに対してニューファウンドランドは毛皮の交易,カリブ海の植民地はサトウキビの生産をそれぞれの目的としていた。

 イギリスのアジア進出は1600年のイギリス東インド会社の設立に始まるが,オランダとのあいだで激しい競争に敗れ,1623年のアンボイナ事件を契機として,1680年代に東アジア・東南アジアから撤退し,インドにその活路をもとめた。フランスの16世紀の初めから新旧両大陸の各地にたびたびにわたって探検隊もしくは貿易船隊を派遣し,カナダ・フロリダ・カリブ海域・マルティニク・インド東海岸などで行動していたが,国家的な規模で活動するようになるのはもっとあとのことであった。

 1620年代から1650年ごろまでがオランダの海上進出のもっとも活発な時代であった。アジアでは東アジア・東南アジアの海上貿易をほぼ独占し,1641年には東南アジアにおけるポルトガルの根拠地マラッカを占領した。新大陸では1624年にブラジルを占領し,以後約30年にわたってこれを支配した。しかしイギリス・オランダ・フランスあるいはデンマークはどの活動にもかかわらず,新大陸・フィリピンにおけるスペイン,インドにおけるポルトガルの優位はゆるがなかった。

【結論】大航海時代の第1期・第2期は基本的にはスペインとポルトガルの対立抗争がイベリア半島から新旧両大陸に拡大し,その結果として,世界全体が一つの経済システムに組み込まれた時期であった。第3期は両国の勢力範囲と,とくに新大陸における植民地支配体制の確立した時期であった。第4期はスペイン・ポルトガル対イギリス・オランダ・フランスなど新興勢力の対立抗争の時期であった。1648年のウェストファリア条約で西ヨーロッパ諸国の一応の勢力範囲が確定し,1651年の航海条例によってイギリスがオランダに挑戦を開始した時をもって大航海時代は終了したということができる。

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