●大義名分論 たいぎめいぶんろん
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大義を正すための学問。朱学の伝統を継述して善悪正邪判断する学問。【大義名分論と水戸学】孔子にはじまり朱子において大成した大義名分論は,儒教的名分論であり,水戸学の革命性を支えるものでもあった。その儒教的名分論,あるいは朱子学的名分論の定式化できない多元的なものであるともいう。大義名分論は後期水戸学の「国体論」とかかわり,そして天と天祖とを等価値もしくは同一視さえしている。水戸学の国体論が儒教の王道の理念に基礎づけられ,その王道論が天の秩序であるところの忠・孝という名分論を内包している。
大義名分論は,礼楽刑政すなわち政治制度や法令を第一義としながらも,徳治の一環としての仁政の実現を最も重要な手段と考えている。〈仁政の根本は大君克己得礼を以て其の身を修む〉(『徳川治紀への建議』幽谷全集,1807,文化4)ということにつらなり,人君の脩身克己にある。真の仁政とは,〈聖賢の全体大用の政〉(同上)そのものを意味するもので,まさに礼楽刑政が徳治主義の手段・仁政実現の条件であったということになる。
【崎門派と大義名分論】たとえば崎門学派の佐藤直方は,大義にかかわらぬ人,湯武放伐を是認するような人で楠公を尊崇せず,四十七士を罵倒する。それに対し,浅見絅斎はそれと正反対の立場にたっている。そのためか親友佐藤直方といき方を異にするといって大義名分の上にたって義絶している。また弟子三宅観瀾が水戸侯に仕官したので破門している。絅斎は,儒者は富貴を求めず,清貧に安んじ,独り文を講ずるのみでなく,文をねり,赤心報国の志を養うものと考えていた。絅斎の『靖献遺言附講』では〈武士ハ奉公ヲ勤メテモトヨリ君ヘソレソレノ職ヲイタスコト也〉と述ベ,忠の字そのものの吟味をつくすことを求めた人であった。彼は山崎闇斎門につながり,大義名分を正した人であり,闇斎は孔子朱子相伝の大義名分論を開拓した人といっている。また絅斎は,熊沢蕃山に対してはその著『集義和書』において〈楠正成ハ北条ノ臣ナレド天子ノ為ニ働カバ関東ニ叛クモ苦シカラザル由ヲ書リ。扨モ名分ノ学ヲシラザレバアサマシキ議論也〉(箚録)と述べている。そしてこれは王土王民思想を無視した議論だと批判している。
【水戸義公と大義名分】水戸の徳川光圀は,〈人の人たる道をすこしもしらせたく思ふが故に学文の儀を世話するなり〉(『桃源遺事』)と述べている。そして〈往を彰かにして事を考ふ〉ために彰考館をつくり,無双の御博学の実証のため史料収集につとめるとともに,〈皇統を正閏し,人臣を是非〉するための史書づくりを志し,楠公の顕彰につとめ,朝儀復興につとめ,大義を正し,わが主君は天子なりと明確にした。こうした考えは,佐々宗淳・栗山潜峰にうけつがれている。光圀は中華の称を中国ではなく日本に求め,日本の都こそ中華と称すべきと述べている(『西山随筆』)。また山鹿素行も『中朝事実』で〈中朝〉をわが国のこととしている。また山崎闇斎は〈拘幽操〉を重んじ,ここに君臣の大義と忠の極致を認めている。闇斎はここで革命を許さぬ君臣の大義をつらぬいている。
【平田篤胤の大義名分論】水戸学とともに平田国学は〈大御国に射向ひ奉る夷のありて,翁の御心いためまさば〉弓矢を取って神軍に加わり,賊を打ち帰って後山室山に帰って翁に復命するのが〈篤胤が常の志なり〉と述べている。篤胤は楠正成の湊川の志を武士とあるもののもつべきものと考えている。彼は中世武家政治批判をし,戦時の反逆に対し,定家・家隆に対して〈君臣の道の大義に闇〉い男と「玉襷」に批判している。このような傾向は王室家・懐慨家にもみられるものである。
【尊王攘夷と大義名分】『新論』尊王攘夷を用いないが,安政年間になると水戸学ではスローガンに用い,吉田松陰はこの四文字に結集する旨を説いた。藤田東湖は,尊王壌夷は志士仁人盡忠ー国の大義名分とするところだといっている。攘夷は人心を一にすることが,尊王より効果的という。