●大諫奏 だいかんそう
ヨーロッパ 英国 AD1641 前期スチュアート朝
1641年,ピューリタン革命の内乱勃発の直前に,イギリス議会(下院)が可決した絶対王政批判の宣言書。「大抗議文」と訳されることもある。当然,下院を通過しただけの決議は法的効力をもたないし,国王を拘束する力もなかったが,国民に対するアッピールとしての意味をもち,反国王・反絶対王政の姿勢を明確に示した革命の宣言書である。国王チャールズ1世は,いったんはこの文の主旨を守ると約束したが,実際にはその約束は果たされず,1642年8月内乱となった。その意味で,それはピューリタン革命の導火線ともみることができる。【長期議会と大諫奏】イギリス政治史上,1640年11月召集された議会(下院)を長期議会というが,これはチャールズ1世の王政を批判して王との対立を明確にした議会として有名である。チャールズは1628年に議会が「権利の請願」を可決して以来議会を無視し,いわゆるロード=ストラフォード体制といわれる絶対王政を行っていたが,1640年まで11年間にわたる無議会政治に対して,国民の不満はつのるばかりであった。星室庁と高等宗務官裁判所を利用して「徹底政策」を行ったほか,トン税・ポンド税,それに騎士強制法,商工業に対する営業独占の付与,さらには船舶税の強化等々と,議会外課税を増加させて「権利の請願」を踏みにじった。1640年,スコットランド出兵の戦費調達のため開かれた議会は3週間で解散された(短期議会)が,背に腹はかえられず,再び議会が開かれた。これが長期議会である。そしてこの長期議会(1640年11月〜1653年4月)の比較的初期にあたる1641年11月に可決されたのが,この「大諫奏」である。
【革命の宣言書】大諫奏はたしかに革命の宣言書ともいうべきものであり,国王の悪政を次々と列挙してこれを非難するとともに,あくまでも国王と対決し戦いぬくという不退転の決意を示したものであった。まずその前文では「大諫奏」起草の主旨を明らかにしているが,それは旧秩序の打破を宣したものにほかならなかった。国王チャールズの悪政は数々あるが,要約すると次の二つである。その一つはまず,ロードによる国教会体制で,国教会を国王専制政治の手段としていること。それによって純粋な宗教が抑圧されているばかりでなく,カトリック教徒・アルミニウス派などが助長され,育成されている。こうしてカトリック色を濃くしたイギリス国教会の監督および裁判所がいよいよ多くの人々を不幸に陥れた。その結果,国王と国民とのあいだの不信はいよいよ増大した。いま一つは経済問題で,石鹸・塩・酒類・皮革・石炭など日常的に必要な諸商品の製造・販売等の権利と自由を抑圧したこと,つまり独占商人や投機業者の利益だけが保護されたため,一般商人の利益が犠牲にされている等々と悪政の事例が列挙されている。国王チャールズ1世に対する弾劾の書でもあった。
【国王のためか国民のためか】しかし当時の議会(下院)にはさまざまな考え方の人がいたのであって,全員がそうでなくても大部分の議員が「大諫秦」に賛同したわけではなかった。国王の悪政に対する不満は多かれ少なかれ誰しもがいだいていたが,国教会の問題については必ずしも意見が一致していたわけではなかった。実際,採決の結果は,「大諫奏」原案に賛成したものが159名であったのに対して,反対も148名あり,大論戦ののち,わずか11票差でようやく可決されたにすぎなかった。名誉革命後には議会主権が確立するが,このころにはなお下院議員自体のなかにも,上院の同意を得ないと国民に訴えることはできないし,国王とも協調してやっていくべきだと考えていた人もかなりいた。国王にその行きすぎを改めてもらえばそれでいいではないかという人も多かったわけである。また「大諫奏」は国民の権利を擁護する抗議文ではあったが,レベラーズなど一般庶民の意見がどれほど反映されていたかという点でも疑問がある。
〔参考文献〕浜村正夫『イギリス市民革命史』増補版,1971,未来社