●大化改新 たいかのかいしん
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7世紀中葉の日本において,天皇家中心の強大な中央集権的官僚制国家の建設をめざした政治改革をいう。狭義の事件としては,舒明天皇と皇極女帝とのあいだに生まれた中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌子(のちの藤原鎌足)等が,当時朝廷で独裁的権力をふるうようになった蘇我大臣家(蝦夷・入鹿父子)をクーデタによって滅ぼして,孝徳天皇・皇太子中大兄・左大臣阿倍内麻呂・右大臣蘇我倉山田石川麻呂・内臣中臣鎌子および国博士(政治顧問)僧旻・高向玄理という新政府を組織し,年号を「大化」として645年(大化1)7月より特定の任務を与えた国司の発遣などを初め新しい人民支配に着手,難波に遷都の646年(大化2)正月には直ちに新政の基本政策「改新之詔」を宣布した。以後651年(白雉2)に難波長柄豊碕宮を完成・遷居するまで,国司や領主層の統制を強化するとともに薄葬令・冠位制など新しい朝廷の身分制をととのえ,中央・地方の官僚組織の基礎をつくったことなどの過程を概略“大化改新”とみるのがふつうである。広義には,中国大陸における唐という強大な中央集権国家の出現とその影響下に朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の3国がそれぞれ中央集権化をめざして競合し相争うという緊張関係に突入したことなどの東アジア諸国家の国際情勢を重視し,特に隋・唐の文物制度を強く志向した日本がやがて唐の律令制度を導入して日本律令(大宝律令)を完成するまでの7世紀全体の1世紀間を大きく“大化改新の時代”とみる立場もある。以上は,これまでの通説的見解の簡単な要約でしかないが,1965年前後から今日にいたるまでの研究水準からみれば,このような通説的見解にはさまざまの問題がある。それは一口にいえば,“大化改新”とはどういう事件であったかという,事件としての再検討がまず第一である。
そもそも“大化改新”という語は,近世江戸時代までは成立していない。この語は明白に年号の「大化」(広大なる徳化の意)と「改新之詔」の「改新」(改元と同義か?)との合成語であるが,1879年(明治12)に54歳で没した元老院少書記官横山由清の写本「食貨志略」・稿本「田制私考」(1926年大岡山書店刊『日本田制史』所収)に早く用いられており,これは『日本書紀』の「改新之詔」を注目した江戸時代の朱子学者や国学者の研究に由来すると思われる。そこでは“大化改新”は,律令制度の起点として明らかに制度史上の用語であり,それは大正・昭和の学者にもいっそう強く踏襲されるが,この用語が明治維新と理念的に並称される大事件として意義を与えられるようになるのは1888年刊の『日本通鑑』(杉浦重剛・辰巳小次郎・棚橋一郎・坪井正五郎等)以後である。けれども,その核心的意義が「改新之詔」の宣布という事実にもとづくという点では,今日までの通説的見解においても変わっていない。ただ,昭和初年の日本古代史における法制史的・社会経済史的研究の高まりのなかで,この「改新之詔」について津田左右吉氏が文中の「凡」条以下の部分を近江令の修飾と考え(1933年刊『上代日本の社会及び思想』所収「大化改新の研究」),また坂本太郎氏が津田氏的立場で別に詳細な逐条的史料批判を発表(1938年刊『大化改新の研究』),前者の否定的批判と後者の肯定的批判という立場の相違があるにせよ,両氏の研究によって『日本書紀』の記載がそのまま事実とは認められず,もちろん原詔の存在は疑わないものの,天武朝以後の書紀編者の筆が加えられていることが具体的に指摘されたことは,のちの研究の大きな土台となった。戦後は堰を切ったように多数の研究が輩出するのであるが,「改新之詔」については大まかに二つの意見が対立している。一つは,のちの令文の強度の修飾を認めつつも原詔の存在を肯定する立場,一つは,「凡」条のみならず,全文を大化当時のものではないと否定する立場である。次に,その対立点を語文について簡略に解説してみよう。 詔は4項目よりなり,それぞれ主文と副文とで構成され,第一項の副文は『漢書』恵帝記にみえる文とほとんど同文であるが,第二・三・四の副文はみな複数の「凡」条である。近年はこの「凡」条を近江令とみる人は少なく,大部分の論者は浄御原令または大宝令の条文の転載とみるが,これを除いて主文のみをかかげると次のようになる。(原漢文)
第一項 昔在ノ天皇等立ツル子代之民,處々之屯倉,及ビ,別ニハ臣,連,伴造,国造,村首所有ノ部曲之民,處々ノ田荘ヲ罷メヨ,仍リテ食封ヲ大夫以上ニ賜フコト各差有り,降リテ布帛ヲ以テ官人,百姓ニ賜フコト差有リ
第二項 初メテ京師ヲ修メ,畿内,国司,郡司,関塞,斥候,防人,駅馬,伝馬ヲ置キ,鈴契ヲ造リ,山河ヲ定メヨ
第三項初メテ戸籍,計帳,班田収授之法ヲ造レ
第四項旧ノ賦役ヲ罷メテ,田ノ調ヲ行へ
問題は,これらの主文が,646年当時の原詔か,然らずして書紀編者の虚構かという点にある。主文は一見して令文とは異なり,第一項は通説においてすでに大化以前の私地私民の廃止と解釈されており,第二項は新たに行政区そのほかを制定するもので,第三項はこれも新たに人民支配の基本としての台帳の登録とそれにもとづく田制で,第四項は大化以前の力役を廃止して田積による課税を実施せよ,ということであり,津田・坂本両氏によっても基本的に疑問とされることなく,新政開始の詔としてはむしろ整合性のあるものとなろう。これは要するに,通説的見解をほぼ是認する第1の立場である。しかし,戦後,部民ないし部民制の研究が深化してくると,第一項を従来どおり私地私民の廃止=公地公民制の成立と単純に解してよいかどうかに複雑な問題が生じてくるし,また,藤原宮跡出土の評名木簡によって大宝令以前は「郡」ではなく「評」字が広く一般に使用されていた可能性が強くなり,郡評論争に一応の終止符が打たれると,第二項が大化当時の原詔とは考えにくくなるし,そして第三・四項についても,その主文から大化当時の原詔の存在を立証しえないという見解に加え,646年の第一項の詔の前年645年の詔に〈国家所有ノ公民〉の存在があることは記事の矛盾で,第一項の部民廃止は実際には664年(天智3)に「民部家部」を定め675年(天武4)に「部曲」を廃した時期に求むべきで,第一項は書紀編者の捏造にすぎないという主張も提起され,原詔の存在を疑うようになった。これが「改新之詔」を否定的にみる,いわば第2の立場である。
このような異見の対立が今後とも容易に解決するとも思われないが,ただ見逃すことができないのは,一つには孝徳紀以後の対氏族策の過程を厳密に考証していく過程で,改革の実際は意外に小規模だったのではないか,というように規模限定的にみようとする見解であり,もう一つは,従来からも多くの論者によって注目されてきた唐制の模倣であるとか,唐帝国の圧力であるとか,つまり東アジア諸国間の国際的な力関係のなかで政治改革の必然性をより深く具体的に追究してみる必要があるのではないかという視角である。これらの諸点はいずれも重要な課題であって,たとえば,当時としては開明的であったと思われる蘇我政権の問題にしても,また孝徳朝における難波遷都や百済救援の問題にしても,この世紀における国際的外交儀礼の側面から新しい視点が生ずる可能性があるように思われる。“大化改新”は,実像か虚像かの二者択一ではなく,書紀編者の“史観”をさらに丁寧に読んでいく動向のなかから第三の立場がすでに形成されつつある。
〔参考文献〕野村忠夫『研究史大化改新』1978,吉川弘文館
井上光貞『日本古代国家の研究』1965,岩波書店
関晃「改新の詔の研究」東北大学文学部研究年報,1965,66
門脇禎二『「大化改新」論』1969,徳間書店
石母田正『日本の古代国家』1971,岩波書店
原秀三郎『日本古代国家史研究』1980,東京大学出版会