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●大学 だいがく

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 大学の概念は,時代とともに変化しており,今日においても国によって異なっているが,一般的に大学のカテゴリーに含まれる高等教育機関は総合大学・専門大学・教養カレッジである。さらに今世紀後半以降,各国において各種の短期大学放送大学などの非伝統的な高等教育機関が登場してきた。

【大学の起源】古代における学術研究・教育を実施する代表的な機関として,古代ギリシアのアカデミア,インドの宗教的教育機関としてのアーシュラム,古代中国の大学をあげることができる。わが国にも古代に大学寮があったが,それは唐の大学を範としたものである。しかし,現代の大学は,古代の大学・高等教育機関とは関連はなく,その源流は中世のヨーロッパに成立した大学,つまりユニヴァーシティに求められねばなるまい。元来,ユニヴァーシティの原語ウニヴェルシタスは中世社会に発生した同業者組合(ギルド)をさすものであったが,やがて学生や教師たちの団体・組合を意味することになった。これに対して学生や教師が学問をする場所,つまり中世の大学は,古くから慣用的にストゥディウム=ゲネラーレと呼ばれていた。この大学は,ヨーロッパ世界のあらゆる地方の,あらゆる階級の,集いきたる学生や教師に学問するための諸権利を保障しており,その意味で,普遍的・国際的な学問研究・教育機関であった。13世紀以降,大学の卒業生は「どこでも教えられる権利」が特権として認められ,中世後期には学生・教師の団体としてのユニヴァーシティと学問研究・教育機関としてのストゥディウム=ゲネラーレが不可分のものとなり,やがて同義語となった。中世ヨーロッパの大学のなかで,最も古いのは,9世紀から医学校として知られていたイタリアのサレルノ大学である。しかし,中世の代表的大学といえば,イタリアのボロニャ大学とフランスのパリ大学ということになる。ボロニャが法学研究で学生中心の大学の典型であるのに対して,パリは神学・教養諸学科を中心とした教師中心の大学の典型とみられている。とくにパリ大学は,13世紀ドミニコ教団等が参加し,スコラ学の発展が促され,やがてヨーロッパの学術研究の中心となり,ローマ法皇権・ドイツの帝国と並んで中世の3大勢力の一つになった。パリ大学は神学・法学・医学の教授団によって構成される上級3学部と,教養諸学科の教授団によって構成される教養学部という4学部構成の組織形態を確立したが,この学部構成はその後に創設されたヨーロッパ諸大学のモデルとなった。また,パリ大学の学寮(コレージュ)は,イギリスのオックスフォードやケンブリッチ大学に移植され,ここにおいては,集団共同生活を通しての教養ある知識人養成を目標とした教育が展開された。今日の大学の別称カレッジも,その原語コレギウムは団体の意であるが,制度としてはパリ大学の学寮に始まったといってよい。明治中期以降,日本の大学に多大な影響を与えたドイツの大学の教授団によって構成された学部制度も,教師中心の大学の典型とされたパリ大学に範を求めたものであった。このように,巨大な影響力をもつパリ大学は宗教改革以降,スコラ哲学に根ざしたその保守的性格ゆえに,時代を指導する力を喪失した。近代文化の発展への寄与という点では,サレルノやボロニャの医学などにみられる実証的精神を継承したイタリア系の諸大学は,近代自然科学の形成に関して重要な役割を果たしたとみてよい。

【近代大学の成立と発展】宗教改革以降,大学は,教会・国家の権力に対抗する力を失い,それらの権力の従属的位置に転落しており,これらの権力からの独立・自由の確保が大学の課題となった。18世紀前後に設立されたハレ大学(1693)・ゲッティンゲン大学(1737)は,大学の自由の確立への努力をした先駆的大学である。それとともにハレ大学は「自由の原理」と「合理主義」に立脚して学術研究・教育を行う先駆的な近代的大学として,またゲッティンゲン大学は来たるべき新しい時代の指導理念としての新人文主義を創出した大学として,その後の大学に影響を及ぼした。中世大学の代表をパリ大学と呼ぶのに対して,近代大学の代表と称されるのはベルリン大学である。このベルリン大学は,ハレおよびゲッティンゲン大学の先駆的精神と遺産を継承し,新人文主義の理想のもとに建設された。ここでは,中世の大学で下位に置かれた教養学部を哲学部と改称し,哲学が諸学の上に位置づけられた。ベルリン大学に代表されるドイツの大学は,世界の学術研究の中心となり,諸国の大学に大きな影響を与えた。イギリスにおいては,ドイツの近代大学の成立に刺激されて,ロンドン大学(1836)が設立された。その後も,イギリスは時代の新しい要請に対して,伝統的大学の改革が困難なため新大学の設立方式を採択したが,ロンドン大学の創設がその方式の最初といってよい。フランスは革命以降,伝統的な大学を完全に解体し,各学部を専門職業大学として独立させた。それと並行して理工科学校(エコール=ポリテクニク)や高等師範学校(エコール=ノルマル)等の専門学校を設立し,それを高等教育の主流に位置づけた。なかでも理工科学校は,世界最初の近代工学の専門教育機関であり,現代の産業社会における専門大学の端緒というべきものである。ヨーロッパ諸国・アメリカにおいて,時代・社会の要請にもかかわらず,伝統的大学に移植しえなかった技術分野は,専門教育機関として設立された。ドイツの工業大学(テクニッシェ=ホッホシューレ),スイス=チューリッヒの国立総合技術学校(ポリテクニクム),ロシアの帝国技術学校およびアメリカのマサチューセッツ工業大学(インスティチュート=テクノロジー)などがその代表例であり,これらは成立に際して,理工科学校から多大な影響を受けた。フランス革命後解体された大学は,ドイツ近代大学の成功に刺激されて,20世紀前夜にいたって,総合大学として再編成された。しかしフランスにおいては,現代においても,「大学のなかの大学」とされているのは,理工科学校・高等師範学校から構成される専門大学(グラン=ゼコール)である。近代大学の典型とされるドイツの大学も,産業の発展という新しい時代の動向に対応しえない限界性をもっていたことは,工業大学の成立背景の考察(潮木守一『近代大学の形成と変容』1973,東京大学出版会)からも明らかにされているが,20世紀にいたると第一次世界大戦における損失も大きく,世界の学術研究を指導する力量はすでに失っていた。

【20世紀の大学】アメリカには植民地時代に,イギリスの伝統的大学を範として,ハーヴァード(1836)をはじめエール・コロンビアなどの教養(リベラル=アーツ)カレッジが創設された。これらは今日のアイビー=リーグ大学の前身校である。独立宣言以降,アメリカ社会は,独力で産業等の振興に取り組むことが要請された。古典学を中心とする伝統的カレッジは技術教育の導入に消極的であり,ここに農・工業分野の専門教育機関が成立する。まだ,モリル法(1862)を契機として州立大学が増設され,産業分野の実用的要請に対応した。19世紀後半期以降,ドイツ大学の学術研究重視の動向に刺激されて,アメリカの大学は大学院制度を創出した。大学院はジョンズ=ポプキンス大学をはじめ,ハーヴァードなどの伝統的カレッジ,カリフォルニアなどの州立大学に続々と設置され,これらの大学はヨーロッパの大学に比肩しうるユニヴァーシティとなった。19世紀後半以降,伝統的大学も産業の振興・発展に結びつき,応用的研究・教育を求める社会的要請に呼応しはじめ,やがて社会的支持を確立し,アメリカの大学院の学術研究は急速な発展をみた。世界の学術の中心は,第一次世界大戦の前後期には,ドイツの大学からアメリカの大学へ移動していた。またアメリカでは,1920年以降,地域社会の要請に呼応して2年制短期大学ジュニア=カレッジ)が,1960年以降は地域総合教育センターともいうべき地域社会大学(コミュニティ=カレッジ)が急速に成長した。このように現代のアメリカの大学制度は,社会からのあらゆる要請にも対応しうるように,継続教育センターに類する地域社会大学から高度な学術研究を行う研究所・大学院をもつ総合大学にいたるまで,多元的な大学によって構成されている。そればかりでなく,総合大学それ自身が,社会の多様な要請に対応しうるよう,上に述べたような多元的機能を有した複合大学(マルティ-ヴァーシティ,C.カー『大学の効用』1969,東京大学出版会)に変容している。アメリカと並んで,20世紀に代表的な大学制度を成立させたソ連において,高等教育の発展の中心的位置を占めるのはモスクワ大学であり,同大学が設立されたのは1755年のことである。ソ連には革命期(1917)までに総合大学13校,工業大学18校が設置されていたにすぎない。アメリカの1900年時点の大学数977校,うち工学系大学・学部110校と比べても,ソ連の大学の発展はかなり遅れていた。革命後,ソ連は労働者・農民のなかから優秀な人材を育成すべく高等教育の拡大に着手し,今日の放送大学の先駆ともいうべきラジオ通信大学(1924)をはじめ労働者大学(1926)等を設置した。第二次世界大戦以降は,高等教育の質的向上を政策課題として取り上げ,とくに工業部門を重視した。1955年工学系大学卒業生は6万6,000名となり,アメリカの2万2,000名の約6倍と量的拡大を行い,質の面での成果は,1957年世界最初の人工衛星の打ち上げ成功に結びついた。ソ連の大学制度は,社会の多様な要請に呼応しうるよう,総合大学のほかに多種の専門大学や,勤労者に対する多様な高等教育機関を設置している点でもアメリカと共通するところは多い。

【アジアの大学】中国最初の近代的総合大学は国立京師大学堂(1898)であり,これは今日の北京大学の前身校である。20世紀初期以降,中国はアメリカ=モデルの高等教育政策をすすめ,中国解放前には高等教育機関を約200校設置していた。解放後はソ連に範を求め,高等教育制度を改革し,国家建設の観点から,工・農・医・教育分野の専門大学の設置に力点を置いた。1950年代後半以降の約20年間には自然災害・中−ソ対立・文化革命等があり,高等教育の発展に紆余曲折がみられる。1977年文革の終焉以降,中国は現代化政策にもとづき,高等教育の量的拡大・質的向上に着手した。1982年現在,総合大学32校・専門大学491校に達し,このほか定時制の高等教育機関としてテレビ大学・職工大学・業余(余暇)大学・夜間大学を発達させ,国家建設と労働者・農民の高等教育に応じている。

 韓国には,第二次世界大戦以前においては日本政府が設立した京城帝国大学と民族の学校ともいうべき多くの私立専門学校があったにとどまる。解放後,アメリカに範を求め高等教育を発展させた。前者を母体として国立ソウル大学が,後者を母体として高麗大学・延世大学など私立の代表的大学が創設された。これらは総合大学であるが,このほか,単科大学・2年制初級大学が設立された。1960〜70年代において韓国の高等教育の量的発展は著しい。質の向上の面では1970年代の実験大学を中心とする大学改革が政府主導で実施された。

 フィリピンには,ヨーロッパ以外で最古のヨーロッパ的大学,サンカルロス大学(1595)とサント=トマス大学(1611)がスペインの植民地時代に設置された。アメリカの統治下時代にも国立フィリピン大学(1911)をはじめ多くの私立大学が設立された。今日これらの総合大学のほかに,工業・農業・教育分野の単科大学が数多く設置されており,1960年代には,人口1万人当たりの高等教育機関在籍者数が163人となり,わが国の113人よりはるかに多く,アジア第1の高学歴社会となった。今日も高等教育の量的発展はつづいているが,質の向上が重要課題とされている。

 一方,オランダを宗主国とするインドネシアは,第二次世界大戦前には大学は存在せず,工業・医学の専門学校が数校設置されていたにすぎない。しかし,その後の高等教育の発展は著しく,1979年現在,総合大学および単科大学の数は241校に達している。インドは中国と並んで,高等教育には長い歴史をもつが,近代的大学としてのカルカッタ大学・ボンベイ大学およびマドラス大学が設立されたのは1857年のことである。これらの大学はロンドン大学を範として創設された。このほか,独立(1947)期までに数多くの大学が設立されたが,本格的な高等教育の発展は大学補助金委員会設置(1956)以降のことである。1960〜70年代の高等教育の量的発展はとくに顕著であり,1979年現在,総合大学120校,教養カレッジ等4,500校,学生数265万人となり,インドの高等教育は規模の面ではアジア諸国で最大となった。

【日本の大学】わが国最初の近代的な総合大学,東京大学は1878年(明治10)に創設された。同大学の母体となったのは,江戸幕府の蕃書調所から発達した東京開成学校と西洋医学所を前身校とする東京医学校であった。東京開成学校は,東京大学創設に先立ち,主としてアメリカの大学を範として法・文・理の3学部を設置しており,東京医学校はドイツ医学を範とした医学教育を実施していた。創立期の東京大学は法・文・理・医の4学部と予科教育のための予備門から構成されており,まさにヨーロッパ型の総合大学であった。わが国は最初の工学教育機関は,工部省に設置された工学寮(1871)である。教頭のヘンリー=ダイヤーを通してヨーロッパ諸国の工学教育機関の長所を総合して創設され,1878年工部大学校と改称された。当時,すでに同校は世界から注目されており,わが国が世界に誇ることのできた「工業大学」であった。帝国大学令(1886)の公布により,東京大学は工部大学校を合併して帝国大学と改称された。帝国大学は〈国家ノ須要ニ応ズル学術技芸〉を教育・研究することを目的としており,わが国唯一の,かつ最高の,官立総合大学として,官僚・高級技術者養成の役割を果たすことになった。帝国大学創設の際,大学予備門は独立し,高等中学校と改称され,1894年,さらに高等学校と名を改めた。高等(中)学校は明治期に8校設立され,全国の優秀な青年を帝国大学に吸収する機能を果たした。1890年以降,帝国大学における学問研究等は,国家政策との関連もあり,ドイツの学術研究の影響を強く受けた。帝国大学は,その目的・機能にみられるように,国家権力との結びつきは,欧米の大学に比べて強かったが,明治期の戸水事件・大正期の沢柳事件等の経験を通して,大学の自治・学問の自由の慣行と体制をととのえた。わが国の産業資本の発達に呼応して帝国大学が増設された。明治期には京都帝国大学(1897)をはじめ,東北・九州・北海道の4帝国大学,昭和期にいたって大阪および名古屋に帝国大学が創設された。私立の高等教育機関としては,明治期に福沢論吉が設立した慶応義塾新島襄同志社大隈重信の東京専門学校(早稲田大学の前身校)などが,特色ある教育を展開していた。これらの学校の多くは明治後期以降,大学の名称を用いていたが,制度上は専門学校令の適用を受けていた。また,明治期以降,工業・農林・商業・医学の各分野に官立専門学校が設置された。資本主義の発達と大正デモクラシーを背景として,時代の高等教育拡充の要請に応じて,1918年(大正7)大学令が制定され,公・私立大学および単科大学設立の道が開かれた。これによって官・私立専門学校は,長年の念願であった大学への昇格を実現した。大正・昭和期にかけて大学増設と呼応して,官・私立高等学校・実業系専門学校および教員養成諸学校が続々と設置された。第二次世界大戦終結の1945年には,『文部省年報−昭和20年版』によれば高等教育機関は大学48校(官立19・公立2・私立27),高等学校33校,大学予科34校,専門学校309校,教員養成諸学校142校に達していた。大戦後,わが国の高等教育制度は根本的に改革された。その主要な改革のポイントは次の6点である。[1]大学の目的・性格等の重要事項は,勅令で規定していたのをやめ,民主主義と平和主義を基調とする日本国憲法にもとづき制定された教育基本法を中核とする学校教育法等の法律によって規定された。[2]新制大学の目的は,学校教育法第52条によって〈学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授し,知的,道徳的および応用的能力を展開させること〉と規定されており,帝国大学令大学令の目的規定と比較すれば,新制大学においては国家主義の克服が認められる。それと同時に,大学教育において専門教育とともに一般教育が重視されることになった。[3]戦前の複線型の教育体系を単線型に改めた。新制大学は,教育体系の頂点に位置づけられ,新制高等学校のすべての卒業生に対して開かれることになった。これは女子に対して大学の機会を開いたこと,大学の「大衆化」を指向したことを意味する。[4]戦前期の大学の自由の苦悩の経験を教訓として,大学の自治・学問の自由に関して憲法上の保障を与えた。[5]大学の設置認可を,専門職能団体としての大学基準協会が制定した大学基準にもとづき実施した。[6]国立新制大学設置に際して,〈1府県1大学の原則〉を含む国立大学設置11原則が適用された。かくして旧制度の高等教育諸機関はほとんどすべて再編成され,1949年180校(国立70・公立18・私立92,全学生数12万人)が新制大学として出発した。上にみた戦後の大学制度の改革は,1946年に来日した第1次アメリカ教育使節団の報告書の基本的精神に立脚したものと評価されている。1950年代後半期以降の経済高度成長政策,産業界の要請および国民の高等教育要求に呼応して,この間,高等教育の量的発展は著しかった。1969年時点で大学数は379校(国立75・公立34・私立270)となり,発足時の約2倍増であったが,学生数は135万人で11倍増という急激な膨張をしたのである。1968年から1969年にかけて全国大学の多くは大学紛争の渦に巻に込まれた。大学紛争はわが国のみならず,工業先進国の多くの大学に共通した現象であった。したがって大学紛争で提起された問題は,わが国大学に固有な問題と国際的に共通する問題が複合したものであったと解される。したがって提起された問題は多岐にわたるが,大学論の観点から要約すれば次の3点にまとめることができる。[1]講座制の閉鎖性・教授会自治の専断などへの批判を通して提起された問題は,大学における学問研究・教育のあり方への問いであり,つきつめていえば,社会制度としての大学の存在理由を問うものであった。[2]大学の構成員ともいうべき学生を「教育を受ける権利」「学問の自由」の主体者として位置づけるという認識が大学に欠落していたことが批判された。[3]大学は大衆化され,多様な学生を迎えているにもかかわらず,大学教育は画一的であり,対応しえていない。とくに一般教育の形骸化,講座制を基盤とした大学院制度の閉鎖性・非近代性への批判は強かった。これらの問題のなかには新制大学出発期以降,解決すべくして解決しえなかった問題も多く,そのため制度的変革のみならず,大学教授団の学問研究・教育に関する意識変革を求める傾向が強いものであったといえよう。全国の各大学・大学関係諸団体,および日本学術会議はそれぞれ「大学改革の構想」等を作成,公表した。文部省も「大学設置基準の一部改正」(1971)・「大学院設置基準」(1974)を制定するなど,大学教育改革のための法令上の整備を行った。それとともに,文部省中央教育審議会は答申「教育改革の基本的施策」(1971)を公表した。これは明治の学制・戦後の教育改革に次ぐ第3の教育改革を指向した意欲的な報告書である。同答申にもとづき,70年代には高等教育長期計画の策定のための体制が整えられ,作業を開始した。それと並行して新構想大学の設置・共通一次試験の実施等が具体化した。全国の多くの大学は,一般教育および専門教育の教育内容・方法の改善,入学者選抜方法の改善などにみるべき努力をはらった(文部省大学局編『大学資料』および各大学「大学案内」「学生便覧」等,参照)。だが,今日,大学入試における偏差値重視の傾向は助長され,共通1次試験に対する国民の不満は高まっている。一方,大学には,「読み・書き」などの基礎学力の欠落した学生や目的意識の欠如した「高偏差値型」の学生など多様な学生が多数を占めてきた。また大学は,社会からは新しい時代に適応しうる柔軟な思考力・積極的な行動力を有する人材の育成が求められている。上にみた多様な学生に適合した,しかも時代の要請に対応しうる大学教育の展開は,大学関係者の努力にもかかわらず,その実現はきわめて困難な事態を迎えている。1983年,文部省大学設置審議会は中間報告「昭和61年度以降の高等教育の計画的整備について」を公表し,それを通して高等教育の多彩な活性化についての意見を表明した。他方,日本教職員組合は,大学問題検討委員会報告書「日本の大学-その現状と改革への提言」(1979)・第2次教育制度検討委員会報告書「現代日本の教育改革」(1983)を公表し,ひきつづき「教育改革国民プラン−第1次試案」(1984)を発表した。各政党も,ここ数年来「教育改革への提言」を次々と公表している。財界からは日本経営者団体連盟と関西経済同友会が,民間団体としては,世界を考える京都座会・社会経済国民会議などが,日本の教育改革に関する提案を発表している。政府は1984年9月,内閣直属の臨時教育審議会を発足させ,〈21世紀を踏えた長期的,国際的視野に立った教育改革〉の観点から,初等・中等教育とともに高等教育の検討を開始した。今や国民的課題としての大学教育改革は,初等・中等教育改革とともに最重要政策課題の一つとなった。それだけに,国民の多くは教育改革の動向を期待とともに大きな不安をもって注目しているといってよい。

〔参考文献〕H.ラシュドール,横尾壮英訳『大学の起源』1966,東洋館出版社

『大学制度史』皇至道著作集第5巻,1977,第一法規出版

海後宗臣・寺崎昌男『大学教育』戦後日本の教育改革9,1969,東京大学出版会

寺崎昌男・成田克矢『大学の歴史』学校の歴史 第4巻,1979,第一法規出版

天野正治編「(特集)世界の大学」『現代のエスプリ』205号,至文堂

ヨセフ=ベンテービット,潮木守一・天野郁夫訳『科学の社会学』1974,至誠堂

日本ユネスコ国内委員会編『世界の高等教育』1966,学校教育研究所

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