●大運河 だいうんが
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中国では早くから大量の物資を輸送するための水路が開掘された。前5世紀の初めにはすでに呉が揚子江と淮河を結ぶカンコウ※注1※をつくったといわれ,秦漢時代に入ると,黄河と淮河を結ぶ鴻溝(こうこう)=ロウトウキョ※注2※や黄河と長安とのあいだの漕渠などが開かれたが,普通,大運河といえば,7世紀初頭の隋に始まる南北を縦貫する運河をさす。589年(開皇9),数世紀におよぶ南北朝の分立に終止符をうった隋は,南北の合一をおし進め,あわせて長安や洛陽の消費をまかなうために,運河の貫通が急務となった。こうしたなかで即位した煬帝は,まず本拠地を洛陽に移した上で,開封の西北付近から黄河の水を注いで淮河に接続する通済渠(つうさいきょ=御河,のちベン※注3※河と通称),古代のカンコウ※注1※で父文帝が再開したのを拡張した山陽涜(さんようとく),さらに揚子江を越えて南の杭州にいたる江南河を開いて,東南方面に直結させる一方,黄河より北には,北京付近の幽州に達する永済渠を通した。ここに南北地域は初めて幅40歩(約70m)の1本の水路によって繋がれることになった。この運河が本格的に遭運に活用されるのは,つぎの唐朝になってからで,長安に花開く大唐の春はこれに負うところが大きい。一方,遭運の発達は,当時高まりつつあった経済活動をいっそう刺激し,運河ぞいの交通の要衝を占める開封・揚州・抗州などの諸都市の繁栄をもたらし,その結果,長安・洛陽の歴史的役割は唐の滅亡をもって終わりを告げ,代わって開封(東京)が五代から北宋期の政治経済の中心となるにいたった。唐宋の変革を促した土壌は,この運河によって用意されたといって過言でない。隋に始まり,唐から北宋へと受け継がれた大運河は,北宋滅亡後の約1世紀半,南北分断のなかで機能を停止するが,13世紀後半,蒙古族から出た元が全土を統一し,都を大都(北京)に定めるや,再び重要性が意識され,運河の歴史の第二段階を迎えることになる。当時,黄河は東南流して淮河に合流していたため,当初の遭運ルートは,江南河・揚州運河(山陽涜)から黄河をへて衛河(旧永済渠)につなぐ形がとられた。だがこれは,黄河を遡上して大きく迂回しなければならず,しかも黄河と衛河のあいだが陸運となるなど,大量の輸送には不向きであった。そこで新たに徐州から北上して大清河(旧済水,今日の黄河道)に達する済州渠が開かれ,そこから大清河を下り,渤海湾から都にいたる途ができ,また一方ですべてを海道による方法も試みられたが,いずれも迂回は正されなかったうえ,海路では海賊や海難事故の危険がつきまとい,早急な直通路の開さくが求められた。かくして1289年(至元26),済州渠を北上して臨清で衛河に連絡する会通河の竣工をみ,江南と北京の距離は大幅に短縮された。しかしこの会通河は工事が未熟で十分な経済的効果をあげるまでにはいたらず,遭運の大動脈として機能するのには,明の第三代永楽帝が都を北京に移したのち,1411年(永楽9)に行った大幅な改修をまたなければならなかった。明は中期以降,さらに通州−北京間の元代の通恵河を開浚するとともに,徐州を経由する迂回路をやめて会通河を淮陰に直接させ,ここに今日までつづく江南と北京とを結ぶ1,800kmのルートの確定をみた。清代も都が北京であったため,この運河はいよいよ重要性を増したが,19世紀も半ば以降になると,治安の乱れ・淤浅の進行,加えて大量かつ安全に物資を運搬しうる汽船の登場などによって,その主流を海運にとって代わられた。だが大運河による輸送は部分的に維持されたのち,新中国の成立後改めて注目されて修復が進み,鉄道とともに国内の重要な輸送手段として位置づけられ,また灌漑への利用もはかられることになった。なお近年,華北方面の飲料・灌漑および工業用水に供することを目的に,揚州から揚子江の水を北へ送る水路の建設が進行中である。〔参考文献〕星斌夫『大運河−中国の遭運』1971,近藤出版社
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