●太陰暦(旧暦) たいいんれき
AD
月(太陰)の朔望(みちかけ)を基として組み立てられた暦法で,月の朔望のみによる「純粋太陽暦」と,太陽の運行を併用する「太陰太陽暦」とに分けられる。通常,太陰暦または陰暦と呼ばれるものは後者の太陰太陽暦のことである。月の朔望の周期は平均29.530589日で,この近似値は世界の諸民族にかなり早い時期から知られていたため,いずれの太陰暦も30日の大の月と29日の小の月を組み合わせ,これの12カ月を1暦年とする。太陰暦の1暦年は354日前後であるため,1太陽年との差は約11日で,このまま放置すれば年始はしだいに先行する「純粋太陽暦」。そこで,このずれを一定範囲内に停め,暦月と季節とを関連させるために,さまざまな置閏法が考察された。最も早く太陰暦の発達をみたバビロニアでは,各月30日から成る12カ月,つまり360日をもって「理想年」の長さとした。この暦法では5,6年に1回の割合で閏月を挿入する必要があり,閏月は第6番目または第12番目の月の次に置かれた。バビロニアではのちに「メトン法」と同じ19年7閏法が用いられた。ギリシアでは初め8年に3回の閏月を挿入する8年法が用いられたが,前433年以降「メトン法」が,またそれより100年後から「カリポス法」が用いられるようになった。メトン法は,19太陽年を6,939.60日,235朔望月(19×12+7)を6,939.69日とするもので,19年間に7回閏を挿入することによって,太陰暦と太陽の運行とをほぼ正確に合致させるもので,カポリス法はさらに4倍の76年を周期とすることにより,より精密にした置閏法である。メトン法・カポリス法と同様の周期を使用した太陰暦は中国では漢時代に用いられた。ただし,その起源についてはギリシア天文学の影響によるとするものと,独自の発見によるとするものか2説がある。太陰暦の年始は太陽暦のそれのように,春分とか秋分そのものを選定できないから,顕著な天文そのほかの現象を含む月という決め方になる。太陰暦の年始も北半球にあっては春が多いが,その地域の生活や歴史的事情によってさまざまな時期が選ばれる。太陰暦の月初は新月のころとするものと満月のころとするものとがあり,前者はさらに朔と新月とに二分される。朔とは太陽と月の黄経が一致したときで,月を望見することはできない。中国で発達した太陰暦では朔を月初とし,中国暦を使用した東洋諸国ではこの習慣をうけついだ。一方,インド以西の太陰暦は新月望見,つまり三日月(稀に二日月)が西天に実際に望見できるときを月初とした。このため,こんにちでも日本や中国の「旧暦(太陰暦)」と「イスラム暦」や「ユダヤ暦」とのあいだに月初の日付の相違が認められる。また,インド南部およびスリランカの太陰暦の月初は満月の日としている。
太陰暦の1日の初めは日没とする場合が多い。バビロニア暦・ギリシア=ローマ暦・ユダヤ暦・イスラム暦など新月を月初とする暦法では日没を1日の初めとする例が多い。中国においても,古くは新月を月初とし,日没を1日の初めとしたと考えられる。月の朔望の長さは毎月一定ではなく,冬期は長く,夏は短くなる。中国でも古くはこれを無視して平均値のみで編暦した(平朔)。この場合は大小を交互に組み合わせ,33カ月に1回の割で大の月を連続させればよいことになる。中国暦以外の太陰暦ではこの方法が用いられたが,中国では「儀鳳暦(ぎほうれき)」(665)以降,実際の朔の時間を用いて編暦するようになった(定朔)。定朔によると毎年月の大小の配列が相異することになり,大の月が4カ月つづく四大や,小の月が3カ月つづく三小がおきるようになった。太陰暦では暦日だけでは正確な季節を示すことができないため,暦の上に太陽の位置をあわせて記す必要があった。中国暦では冬至を起点として黄経を24等分した二十四節気が用いられたが,インド以西では黄道上の12の星座「十二宮」を使用して実際の季節を示した。