●大院君 だいいんくん
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1820〜98 李朝高宗時代の摂政であった興宣大院君。名はシオウ※注1※,字は時伯,号は石波。英祖の玄孫(ひまご),高宗の父。1853年,哲宗が後嗣なく死亡すると,趙大妃とはかつて自己の第2子を世子とし,自ら大院君となって摂政し,政権を掌握した。以後10年間複雑多難な時局に処して果敢な独裁政治を断行。彼の執政中には,外戚政治と党争の廃止,書院の撤廃・綱紀の粛正・支配機構の改革・財政の再建などの善政が多かったが,慶福宮重建のための重税と徭役の賦課,天主教徒弾圧,徹底した鎖国の強行などの失政も少なくなかった。彼の専制に対する国民各層の不満が高まり,1873年,彼は野に下り,閔妃(びんひ)政権が登場した。以後,大院君と閔妃との熾烈な政権争いは,日本・清・ロシアの朝鮮半島における勢力争いと結びついて,閔妃が1895年(明治28)に日本人に殺害されるまでつづいた。
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