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第一次世界大戦 だいいちじせかいたいせん
【アメリカ参戦とロシア革命】1917年はアメリカ参戦やロシア革命のおこった年である。4月6日のアメリカ参戦について、ドイツの潜水艦戦に対する人道的理由が動機であったといわれている。確かに1915年5月7日のルシタニア号撃沈事件以来、アメリカの世論はドイツの非人道的行為に対する憤懣を高め、現実に対独国交断絶は、1917年1月31日にドイツが通告した無制限潜水艦戦開始の通牒を契機として実施された。また、大統領ウィルソンとしては、増大していたイギリス・フランスへの借款によるアメリカ資本保護の問題を無視できない立場にあった。さらに、1915年5月9日に中国の受諾した日本の対華21カ条約要求を初めとする積極的な中国進出が、アメリカの将来に重大な脅威と映っていたことも見逃すことのできない重要問題であった。アメリカを取り巻く内外の危機を解消するために残された道は参戦のみであった。というのは、参戦してこそ、講和会議を指導し恒久平和の世界機構を樹立するという理想を実現することができるからである。1917年1月22日に上院で語ったウィルソンの〈勝利なき平和〉の具体的提案が〈無併合・無賠償〉の原則を意味するということを明言したのは、4月2日に議会に送った対独宣戦要請のメッセージのなかであった。
3月16日、皇帝ニコライ2世は露暦の「二月革命」と呼ばれる混乱のなかで退位し、300年に及ぶロマノフ王朝の支配に終止符が打たれたが、さらに11月7日、ボリシェヴィキ革命の成功後直ちに発表された布告の一つは、地主の土地を没収し、これを農民に配分するという内容の「土地に関する布告」であり、社会主義国家への道を開いた。それと同時に、新政権の発表した「平和に関する布告」のなかには〈無併合・無賠償〉の原則が明記されており、ついで発表された「ロシア諸民族の権利宣言」のなかには〈民族自決〉の原則が提唱された。さらにソヴィエト政権は、帝政ロシア政府の締結した秘密条約を公表して秘密外交の廃止を宣言する一方、交戦国諸政府にむかって、戦争目的や平和原則を明示することを求めた。
1918年1月8日の年頭教書のなかで表明されたウィルソンの「十四カ条の綱領」は、この一連のソヴィエト政権の外交攻勢によって発表を迫られた重要な成果であった。ウィルソンの十四カ条の綱領がドイツの戦争終結の条件となり、またパリ講和会議の原則となって、世界歴史の進展に決定的な影響を与えた。
【第2インターナショナルの潰滅以後と大衆動員の問題】第2インターナショナルは1914年以前から反戦運動を展開してきたが、主導権を握っていたドイツの社会民主党は、議会主義を尊重する修正主義政党に変質していた。サライェヴォ事件をめぐる国際緊張の高まりのなかで、社会主義者は反戦に徹すべきであったが、結局は階級よりも民族の立場をとり、開戦に際してのドイツの「城内平和」やフランスの「神聖連合」が端的に示すように、軍事予算反対の立場を貫かなかった。1914年7月31日のパリでのフランス社会党指導者ジャン=ジョレスの排外主義者による殺害や、8月4日のドイツでカール=リープクネヒトやローザ=ルクセンブルクの戦時公債反対論の敗北は、第2インター潰滅の象徴であった。
それにもかかわらず、戦時下でも社会主義者の活動は微力ながらもつづけられていた。1915年9月5日から8日にかけて、スイスのベルンに近いツィンメルヴァルトで開かれた国際社会主義者会議では、参加者の全体が第2インター指導部の戦争協力の態度を非難する点で見解の一致をみたが、しかし、革命派というべきレーニンらの左派が帝国主義戦争を内乱へ転化せよと主張し穏健派と対立した。ついで、1916年4月24日から30日にかけ、同じスイスのインターラーケンに近いキーンタールで開かれた国際社会主義者会議では、いわゆるツィンメルヴァルト左派の勢力が強くなって、第2インターの路線の排斥を決議するとともに、戦争の終結と平和のための闘争の方法が真剣に討議された。ロシア革命やドイツ革命でのツィンメルヴァルト左派の流れを汲む社会主義者の活動が注目される。
高度資本主義時代の戦争は、戦場での軍人の巧みな作戦指導よりも、むしろ銃後の国民の総力をあげての軍需生産力の強弱によって勝負の決まる総力戦である。各国ともその要請に応え、国民を総動員できる体制への組織化を急いだ。ドイツでは、重工業界の第一人者であったAEG社長ラーテナウが陸軍省に新設された戦時資源局長官に就任し、資源の確保や軍需物資の徴発を初めとする総力戦体制の確立に奔走した。イギリスでは、軍需産業再編成に尽力したロイド=ジョージの功績は顕著で、自ら1916年12月4日以後首相に就任して戦争指導に挺身した。英・仏両国は社会主義者も政府の1員になり総力戦に協力したが、さらに被支配民族をも、代償を保障して戦争に動員した。戦後自治を許されることを期待したインド兵・モロッコ兵・セネガル兵・アルジェリア兵などが西部戦線への動員に協力した。このように総力戦としての第一次世界大戦は大衆動員が重要課題であることを示したが、この問題は大戦後の大衆デモクラシーの発展を論じる場合、無関係に考えることのできない要因となる。
【大戦の終結と世界の変容】
[1]同盟諸国の降伏 ドイツの無制限潜水艦戦は見込み違いとなってイギリスの屈伏を強いることはできず、アメリカの参戦を許したのみであったが、しかし、ロシアが革命後ブレスト=リトフスク条約を結んで独ソ単独講和が成立したことは、ドイツに希望を与えた。そこでドイツ軍は、1918年3月21日から5月にかけ西部戦線で総攻撃を展開したが、しかし、それ以上は補給がつづかず、進撃を停止した。それに反してアメリカの軍事力の加わった連合国側は、指揮系統を統一して連合軍総司令部を設置し、最高司令官に就任したフランスの将軍フォッシュの統率のもとに反撃に転じ、8月8日にはイギリス軍がソンム戦線でドイツ軍の優勢を覆えした。
同盟国側の降伏は、サロニカから北上した連合国軍に衝かれたブルガリアの9月27日の降伏に始まり、10月30日にはパレスティナを根拠地とするイギリス軍に圧倒されたトルコが降伏に追い込まれた。オーストリアは、この2国の降伏の打撃を受けて11月3日に単独休戦し、皇帝カール1世 Karl Iのスイス亡命とともに、ハプスブルク家の支配は完全に消滅した。
ドイツでは、軍事情勢の悪化するなかで、議会制民主化運動が急激に具体化し始めた。ブルガリアの降伏前後にルーゲンドルフは、ウィルソンの十四カ条の綱領にもとづく講和の実現を期待し、議会政党を基盤とする民主的政府への改組をヘルトリンクに要求した。ヘルトリンクは情勢の激変に対応できず、帝国宰相を辞任した。10月3日、連合国が交渉の相手として認めると予想されたバーデン公マクシミリアン(略称マックス公)が後継帝国宰相として組閣したが、新内閣に初めて社会民主党幹部が入閣した。新内閣は「上から」の民主化をすすめる一方、アメリカに十四カ条の綱領にもとづく休戦の意志を示したが、その回答として、ウィルソンが軍部や王朝的専制君主を交渉の相手にしないと明言したことによって、10月26日、ルーデンドルフは辞職した。
ルーデンドルフの軍事独裁はこのようにして崩壊した。残る問題はカイザーの退位問題であったが、すべては10月28日にキール軍港から発生した革命の嵐に巻き込まれ、「下から」の革命が「上から」の改革よりもドイツの方向を決定した。11月9日、マックス公はカイザーの退位を宣言し、自らも帝国宰相を辞任した。マックス公の内閣に入閣していた社会民主党の幹部 シャイデマンはいち早く帝政の廃止と共和政の樹立を宣言し、10日、ヴィルヘルム2世のオランダ亡命とともに、ホーエンツォレルン家の支配が終わった。11日、ドイツを代表して中央党のエルツベルガーはヒンデンブルクの指示のとおり、パリ郊外のコンピェーニュの森にあった連合国軍総司令部で休戦条約に調印し、ここに4年3カ月に及ぶ第一次世界大戦は850万あまりの犠牲者を出して終結した。
[2]講和条約の締結 パリ講和会議は、1919年1月18日からフランス外務省で開かれた。ウィルソンの十四カ条の綱領がこの会議の原則になるはずであったが、会議の実態はアメリカ・イギリス・フランスを代表するウィルソン・ロイド=ジョージ・クレマンソーのビッグスリーに牛耳られ、結局ウィルソンの理想主義は、帝国主義的利益を追求するイギリスやフランスの現実主義的な権力政治の激しい妨害を受けた。ドイツとの講和条約は同年6月28日に調印されたが、ドイツはこのヴェルサイユ条約を“命令された平和”とみなして反発した。ついで、オーストリアとはサン=ジェルマン条約(1919年9月10日)、ブルガリアとはヌイイー条約(同年11月27日)、ハンガリーとはトリアノン条約(1920年6月4日)、トルコとはセーブル条約(同年8月10日)がそれぞれ調印された。これらの諸条約を支柱として成立した第一次世界大戦後のヨーロッパの国際秩序を、ヴェルサイユ体制と呼ぶ。 [3]ヨーロッパの地盤沈下 第一次世界大戦はロマノフ家のロシア帝国・ハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国・ホーエンツォレルン家のドイツ帝国といった3帝国の崩壊によって終結し、それに代わる社会主義国家ソ連の出現とともに、講和会議は非ヨーロッパ大国アメリカのイニシアチブのもとにすすめられ、さらに日本も国際的地位を高めた。パリ講和会議には敗戦国ドイツや革命の国ロシアの代表は招かれず、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本の5大国が中心となって議事をすすめたことが示しているように、1919年の世界は1914年の世界とはすっかり異なった姿になっており、イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアといったヨーロッパ中心の5大国体制の復活はありえなかった。この変動は、ヨーロッパ中心主義の時代が過去のものとなったといってもよい。米・ソ両国の台頭、アジア・アフリカの反植民地主義運動の活発化を初めとする20世紀史の諸動因は、すべて第一次世界大戦を契機として生起してきた現象であって、いっさいはヨーロッパのいわば地盤沈下と表裏一体の関係にあったとみることができる。 [4]第一次世界大戦と日本 1917年のロシアの革命は、非ヨーロッパ世界のヨーロッパに対する大反抗の1局面という意義を担う出来事であり、世界各地の革命運動や民族独立運動に強い刺激を与えた。それにもかかわらず、日本は大戦中輸出貿易の盛況によって戦争成金を多数生み出し、パリ講和会議では、5大国に仲間入りできたことを誇りとした。日本は依然として19世紀流のヨーロッパ帝国の歩みを模範としつつ、権力国家として繁栄することを願っていた。大戦の勃発に遭遇した大隈重信内閣の加藤高明外相が、1915年5月9日に中国の反発を制して21カ条要求を貫徹したことが、何よりもその姿勢を象徴する出来事であるが、ついで、寺内正毅内閣時代の1918年7月における米騒動の発生や、シベリア出兵の開始が端的に物語っていたにもかかわらず、日本はその繁栄が決して健全でないことに気づいていなかった。そのあと、本格的な政党内閣の最初として、1918年9月29日に成立した“平民宰相”の原敬内閣が、西園寺公望・牧野伸顕・珍田捨巳・松井慶四郎・伊集院彦吉の5名をパリ講和会議に派遣し、ドイツの植民地であった赤道以北の南洋群島の委任統治領化などの成果を得たが、1919年3月1日に朝鮮でおこった万歳事件(三・一事件ともいう)は、日本の植民地支配に対する最初の激しい衝撃であった。大戦下の好況に支えられていた日本資本主義の繁栄は、吉野作造の民本主義や1925年の普通選挙制度の実現に具体化される大正デモクラシーの気運を醸成するとともに、社会主義運動も活発化した。しかし、日本は、東アジアおよび太平洋の問題をめぐる第一次世界大戦後の国際秩序として、1921年〜22年の軍縮会議で成立したワシントン体制という枠組みの中に編入され、その発展は拘束を受けることになる。
〔参考文献〕中山治一『帝国主義の開幕』1970、河出書房
『第一次世界大戦』岩波講座世界歴史、1970、岩波書店
江口朴郎『帝国主義時代の研究』1975、岩波書店
義井博『カイザー ドイツの世界政策と第一次世界大戦』1976、清水書院
岡部健彦『二つの世界大戦』1978、講談社
屋鍋輝彦『第一次世界大戦』1979、中央公論社
フィッシャー、村瀬興雄監訳『世界強国への道』上下、1952、83、岩波書店
テイラー、倉田稔訳『第一次世界大戦』1980、新評論
メイア、斎藤孝・木畑洋一訳『ウィルソン対レーニン−新外交の政治的起源』上下、1983、岩波書店
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