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ヨーロッパ アイルランド AD1914 ハノーヴァー・ウィンザー朝

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第一次世界大戦 だいいちじせかいたいせん

 1914年7月28日〜1918年11月11日まで戦われた史上最初の世界戦争,ドイツ・オーストリアの同盟国はブルガリア・トルコを味方にしたが,イギリス・フランス・ロシアの協商国は,イタリア・ベルギー・セルビア・ルーマニア・ギリシア・アメリカ・ラテン=アメリカ7カ国・日本・中国・シャムなど総計21カ国を同一陣営に組み込んで連合国を形成し戦った。

【大戦の発生・戦前の国際秩序】第一次世界大戦は19世紀以来のヨーロッパおよび世界秩序の崩壊をもたらした戦争であったから,その背景はかなりさかのぼって展望してみる必要がある。19世紀ヨーロッパの国際秩序を維持する原理は,イギリス・フランス・ドイツ(1871年まではプロイセン)・オーストリア・ロシアといった5大列強相互のあいだの国際的勢力均衡システムであり,そのなかでも,ヨーロッパの東西両端にあるイギリスとロシアの影響力は大きかった。英・露両国は単なるヨーロッパ国家でなく,アジアや新大陸に勢力を伸ばしていた一種の超大国であった。19世紀後半,列強の資本主義的発展に伴うアフリカ・東アジア・太平洋方面などへの進出競争が激烈になり,19世紀末までに世界分割が完了すると,20世紀初頭以後,列強間に再分割闘争の危機が高まり,世界大戦勃発の脅威が切迫した。一方,1894年〜95年の日清戦争や1898年の米西戦争に勝利した日本やアメリカといった,いわば非ヨーロッパ強国も競争に加入してきたため,ヨーロッパ中心の列強の勢力関係の枠組みが崩れ始めた。とりわけ1890年代に,皇帝ヴィルヘルム2世の積極化したドイツの世界政策が再分割闘争の危機を刺激したので,イギリスはむしろドイツとの同盟締結を期待し,事実1898年,1899年,1901年の3回にわたって交渉したが,ドイツ側がもっと有利な条件で締結できるときまで待つという態度をとったために英独同盟は成立せず,そこでイギリスはフランスヘの接近に政策を転換し,1904年4月8日に英仏協商を締結した。ついで,1905年の日露戦争の終結とともにこれまでの英露対立が解消されると,イギリスは1907年8月31日に英露協商を締結した。英露協商の成立は第一次世界大戦前史における三国協商体制の成立を意味する画期的な出来事であるが,さらに巨視的に展望すると,ドイツの急激な膨張が,かえってクリミア戦争以来の長期にわたる英・露両超大国の対立を解消したことを意味する一大変動であった。

【大戦の原因】19世紀末20世紀初頭から1914年にいたる十数年のあいだ,世界の各地できな臭い紛争が続発した。ファショダ事件(1898)・米西戦争(1898)・義和団事変(1898〜1900)・ボーア戦争(1899〜1902)・日露戦争(1904〜05)・二度のモロッコ危機(1905,11)・オーストリア=ハンガリー帝国のボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合(1908)・イタリア=トルコ戦争(1911)・二つのバルカン戦争(1912〜13)などがそれらで,最後に第一次世界大戦に拡大するサライェヴォ事件を迎えることになる。ここで,第一次世界大戦の原因を整理すると,建艦競争や3B政策で対立が先鋭化した英独関係,アルザス=ロレーヌ問題とモロッコ問題をめぐる独仏対立,オスマン=トルコ帝国の衰退を背景とするバルカンでのパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の角逐などをあげることができるが,第一次世界大戦は結局は,アフリカ分割や東アジア問題からでなく,「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカンから発火した。日露戦争に敗れたロシアが対外政策の重心をダーダネルス・ボスポラス両海峡に移したことにより,国際対立の焦点は東アジアからバルカンに移動した。1908年,オスマン=トルコ帝国では青年トルコ党日露戦争の日本の勝利の刺激を受け,近代化をめざす革命をおこした際,その混乱に乗じオーストリアは,1878年のベルリン会議以来トルコの宗主権下にありながら,行政管理権のみを委ねられていたスラヴ民族の居住するボスニア=ヘルツェゴヴィナ2州に対して,その完全併合をトルコに認めさせた。同じとき,ブルガリアもオーストリアの了解をもとに,トルコからの完全独立を宣言した。この二つの出来事は日露戦争と1905年の革命の痛手からまだ回復していなかったロシアにとって,汎ゲルマン主義の挑戦であり,さらに周辺の独立国セルビアにとっても重大な脅威であった。サライェヴォ事件の伏線はここにあった。

 1914年6月28日に発生したボスニアの中心都市サライェヴォでのセルビアの1青年によるオーストリア帝位継承者フランツ=フェルディナンド夫妻の暗殺事件によって国際関係は極度に緊張した。オーストリアはドイツの全面的支援を受ける保障を固め,セルビアに最後通牒を送ったが,このときのドイツ帝国宰相ベートマン=ホルヴェクは,信頼していた顧問クリト=リーツラーの助言を尊重し,ドイツやオーストリアの国家的威信を守るため,セルビアに対して一種の戦争瀬戸際政策をとった。交渉は決裂し,7月28日にオーストリアがセルビアに対して宣戦を布告すると,このバルカンの局地戦争は,直ちに連鎖反応をひきおこした。セルビアを後援するロシアがオーストリアやドイツを牽制するため軍隊に総動員令を下すと,8月1日,ドイツはいち早くロシアとの開戦に踏み切り,ついで8月2日,ドイツは露仏同盟を締結しているフランスにも宣戦を布告した。ドイツ軍が北フランスに侵入するためベルギーの中立を蹂躙すると,イギリスはこれを開戦の理由にして,8月4日にドイツに宣戦布告した。こうして全面的なヨーロッパ戦争に拡大したのみでなく,8月23日に日本も日英同盟の誼を名目に対独戦争に参戦し,膠州湾のドイツの租借地青島の占領や太平洋上のドイツ領南洋群島の占領にむかった。

【大戦の進展と国際政治の変動(シュリーフェン計画の挫折)】ドイツは地政学的条件から,同時に露・仏両国と戦わなければならない2正面戦争の脅威を感じていた。そこで1891年から1906年まで参謀総長の要職にあったシュリーフェンは開戦の場合,まずフランスにむかって迅速に行動してその主力軍を6週間で壊滅させ,そのあと直ちにロシア軍にむきを変えて決戦するという作戦計画を立てた。しかし,1913年,シュリーフェンの死により,第一次世界大戦の軍事指導に従事した最初の参謀総長は,普墺戦争普仏戦争で令名の高い大モルトケの甥のモルトケであった。

 開戦とともにドイツ軍右翼は,シュリーフェン計画に沿ってベルギーの中立を侵し,北フランスに殺到しようとしたが,ベルギー軍の頑強な抵抗にあって,予定どおり進撃できなかった。東部戦線でもサムソノフレンネンカンプ両将軍の率いるロシア軍が予想外に迅速に東プロイセン領内に侵入し,首都ベルリンに脅威が及んだ。そこで参謀総長モルトケは,ヒンデンブルクとルーゲンドルフを司令官と参謀長に急遽起用して第8軍の陣容を再編成し,8月26日から30日にかけて,タンネンベルクで決戦したが,兵力劣勢のドイツ軍がロシア軍を包囲殲滅することに成功した。けれども,タンネンベルクの戦いのために西部戦線の右翼に配置されていた2個軍団を東部戦線に回したモルトケ参謀総長の措置は,シュリーフェン計画変更の致命的失策となり,9月5日から約1週間にわたるマルタの戦いでは,ドイツ軍はジョッフルの率いるフランス軍に撃退された。マルタの敗戦は,西部戦線第1主義と短期即決の思想にもとづくシュリーフェン計画の完全な挫折を意味する。

 ドイツ参謀本部はシュリーフェン計画に従い,弾薬などの軍需物資を備蓄していたが,現実の戦争による消費は予測をはるかに上回り,その点フランス参謀本部も同一の見積り違いをしており,1914年10月には独・仏両国とも平時備蓄のすべてをはやくも使い果たすというありさまであった。そこで,今後の戦争の勝負は結局のところ生産力によって決せられることになった。

 9月14日,ドイツでは参謀総長がファルケンハインに代わった。西部戦線は全面的に膠着状態に陥り,大戦は完全に長期戦になった。

秘密外交の展開】大戦の長期化とともに,連合国とロシアとの協力が深刻な問題になった。トルコは,大戦前からドイツと密接で,1914年11月14日,独・墺側に立って参戦した。これに対して連合国は,イギリス海相チャーチルの発案により,ロシア軍と直接共同行動をとれることをめざし,ダーダネルス海峡を突破してトルコの首都コンスタンティノープルを占領するという大胆な作戦を発起したが,英仏連合艦隊はドイツ・トルコ軍の反撃を受け敗退した。

 英仏両国は露独間に単独講和が成立し,ロシアが戦線離脱することを防ぐため,まず1915年3月18日に,両海峡地帯の処分に関するコンスタンティノープル協定を締結して,ロシアの海峡地帯領有の希望を容認し,ついで1916年5月16日には,ペトログラードでイギリス代表マーク=サイクスとフランス代表ジョルジュ=ピコの名前で知られるサイクス=ピコ協定を締結し,アジア=トルコの分割に関する英−仏−露三国間の了解を密約した。英・仏両国の秘密外交は,イタリアにも展開された。本来イタリアは,三国同盟の一員であったにもかかわらず,トルコ分割への参加を勧誘した英・仏両国の提議に応じ,1915年4月26日にロンドン協定を締結,同年5月23日,失地回復問題の解決を期待してオーストリアと開戦した。もっとも,イタリアは軍事的には振わず,オーストリア軍をイタリア国境に牽制したという程度の貢献をしたぐらいで,ドイツとは開戦理由がないので,開戦は1916年8月28日まで遅れた。

 1915年10月2日のブルガリアの同盟国側への参戦,1916年8月27日のルーマニアの連合国側への参戦に際しても,それぞれの側から領土獲得の代償が密約された。小アジアの分割へのイタリアの参加を保障した1917年4月17日のサン=ジャン=ド=モーリエンヌ協定,さらに,アラブ国家の建国を約束した1915年10月24日のマクマホン宣言と,ユダヤ人の国家再建に同意した1917年11月2日のバルフォア宣言。これらの密約が連合国側の秘密外交の成果として重要であるが,日本も秘密外交を展開していた。

 日本は軍事的には連合国の一員であったが,外交的には複雑で,敵国ドイツとも秘密裏に接触した。1915年1月以来,スウェーデン駐剳ドイツ大使ルチウスがストックホルムで日本公使内田定槌と密かに会談し,結実しなかったが,露独単独講和実現の条件やそのための日本の役割などを討議した。

 1917年1月11日,イギリスが日本にむかって,ドイツの潜水艦戦対策として,日本艦艇の地中海派遣を要請してきた。日本はイギリスに,その代償として講和会議において,すでに日本軍の占領下にある山東省の権益と赤道以北の南洋群島を日本に譲渡することを支持する保障を得たいと通告した。同年2月16日,日−英間の秘密協定が成立し,日本の希望が承認された。そのあと3月末までに日本は同様の秘密協定をフランス・ロシア・イタリアとのあいだにも締結した。

 ドイツも勝利への手段として,敵国内での革命運動の促進を策動した。1917年のロシア革命の際,ドイツ参謀本部の計画した「封印列車」に乗りレーニンがスイスから帰国したのは有名であるが,それ以前にも,たとえばドイツが「革命の商人」パルヴス(アレクサンダー=ヘルファントが本名,ドイツ系ロシア人)に資金を提供し,1917年のロシアの三月革命(露暦では二月革命と呼ぶ)の発生を使嗾した形跡がある。このように交戦国の両陣営とも種々の秘密外交を展開しており,ここに第一次世界大戦の帝国主義的性格が十分に現れている。

【ドイツの戦争目的】ドイツ軍は1914年以後,西はベルギー・フランスに,東はポーランド・リトアニア・クールランド・セルビアに進出し,オーストリア軍とともに広大な地域を占領した。さらに独墺両国軍は,トルコ軍やブルガリア軍とともに,1916年秋にはルーマニア,1917年秋にはヴェネツィア・リガ,1918年初めにはエストニア・フィンランドのほか,白ロシア・ウクライナをも占領した。

 ドイツ政府が戦争目的をまとめた最初の公文書は,1914年9月9日付の「9月綱領」である。帝国宰相ベートマン=ホルヴェークの名前で起草されたこの綱領は,フランスを強国として再建できないほどまで弱体化させ,ロシアをドイツの国境からできるかぎり遠くへ押し戻すことを内容とするもので,さらにベルギーを衛星国にし,中央アフリカに植民帝国を建設するという構想を示している。この文書は,マルヌの戦いのまだドイツ軍の攻勢の優勢なときにまとめられ,フランス降伏が間近に迫っているという楽観的観測の高まっていた時期に急いで作成された構想で,戦前からドイツの指導層の一部で唱えられていたベルギーやポーランドを含む広域圏建設の中央ヨーロッパ思想具体化の計画であった。そこで,この文書に特別の重要性のあることを強調し,ドイツの戦争目的は中央ヨーロッパ構想を実現することによって,イギリス・アメリカ・ロシアの3国と対等の世界強国の地位を確立することにあったと主張する歴史家がいる。

 それに反して,この文書よりも,マルヌの敗戦後,大戦下第2代目の参謀総長に就任したファルケンハインの進言にもとづくベートマン=ホルヴェーク帝国宰相の判断を記した文書を重要視する歴史家もある。それによると,ドイツがイギリス・フランス・ロシアの3国に完全に勝利することは到底不可能であるから,ロシアとの単独講和の早期実現をまずはかるべきであり,それとともに,将来再建されるポーランド国家とのあいだにドイツ人の移住地を建設するという,いわゆるポーランド国境帯状地帯の設定が提議されている。この文書を重要視する歴史家の見解によると,ベートマン=ホルヴェーク帝国宰相は領土の移動を限られた範囲内で考えてはいたが,基本的には,イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアの5大国体制にもとづく,伝統的ヨーロッパ国際システムの存続を望んでいた政治家であった,という。

 ヴェルダン要塞攻略の失敗とルーマニアの対独墺参戦に直面し,ファルケンハイン参謀総長は罷免され,1916年8月26日に最高総帥部が再編成された。ヒンデンブルクを参謀総長に,ルーデンドルフを第1兵站総監にする新陣容の発足であるが,とりわけルーデンドルフに権力が集中した。ルーデンドルフは,ベートマン=ホルヴェークやファルケンハインの単独講和の方策を敗北主義と否定し,全ドイツ連盟のほか,前海相ティルピッツを中心として,1917年に結成された祖国党の強力な後援のもとに,全面勝利の獲得をめざす軍事指導をすすめた。ルーデンドルクは,1917年7月13日にベートマン=ホルヴェークを辞職に追い込んだあとは,統帥部の意向通りに動くミハエリス,ついでヘルトリンクを帝国宰相の地位に就けた。

 1918年3月3日,ブレスト=リトフスク条約が調印された。これは,ボリシェヴィキ革命によって成立したソヴィエト政権とのあいだに締結された独ソ単独講和である。ソヴィエト政権は,この条約によって旧ロシア帝国領であったフィンランド・ポーランド・バルト地方などを失ったほか,ウクライナからも撤兵することになったが,この地域はドイツとフランスを合せたよりも広い領土で,ドイツ帝国の国防経済上支配すべき東方広域圏の創設を意味する。ここにルーゲンドルクの戦争目的が明示されており,これは伝統的ヨーロッパ国際システムの抜本的破壊を意味する方策であり,ベークマン=ホルヴェークの政策とは根本的に相違がある,といわねばならない。

(1/2:続く)

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