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●タイ

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 東南アジアの立憲君主国。旧国名シャム(梵語)が黒色を意味するという民間語源説を採り,1939年プラテート=タイ(タイ語で自由民の王国)と改称。日本政府の公式呼称はタイ王国。

【総説】北緯5〜20度,東経97〜105度の熱帯に位置し,国土面積は51.4万平方km(日本の約1.4倍),総人口は4,788万人(1981年現在)。タイ最大河川のメナム河はビルマ国境部山脈と東北地方のペッチャブーン山脈のあいだを南下し,ピン・ワン・ヨム・ナーンなどの支流を合わせて中部地方のデルタ水稲作地方を流れタイ湾に注ぐ。河口に近い首都バンコクは国際港で総人口の約1割が密集する政治・経済・文化の中心地である。北部地方は平均1,000mの山岳地域で焼畑移動耕作民がアヘンなどを栽培し,盆地部ではタイ族が米作を営む。中心都市チェンマイ(人口8万人)はランナータイ王朝の古都。東北地方は海抜100〜200mの高地でキャッサバ芋・ケナフ麻・輸出用トウモロコシを栽培するが生産性が低く住民の暮らしは貧しい。東南地方はタイ湾東岸の多雨地帯で漁業,果実・ゴム栽培のほかに,近年パタヤ海岸保養地・臨海工業地帯などバンコク近郊地と化しつつある。南部のマレー半島は海浜保養地やゴム・錫などの輸出港がある。気候は熱帯モンスーン性で5〜10月の雨季と11〜4月の乾季に分かれ,年平均気温は26〜28度,3〜5月が猛暑で11〜2月がしのぎやすい。マレー半島東岸部では10〜12月に雨季,1〜9月に乾季があり海洋性気候のため年間降雨量が多い。熱帯森林地の植物として北部のチーク材,南部のシュロ・トウ・ヤシ・ゴム・ドリアン,海岸部のマングローブ・ニッパヤシがある。民族人口は総人口の8割がタイ族,1割が中国系人,1割がマレー族その他の少数民族に分かれる。タイ族は元来,華南からタイ・ビルマ・ラオス・ヴェトナムヘ分散した民で,仏教徒タイ族はタイ国内のほかにアッサムのアホム族・ビルマのシャン族・雲南のルー族・ラオスのラオ族に分かれ,自然神信仰のタイ族は広西省チュワン族,ヴェトナムのヌン族・トー族・黒タイ族・赤タイ族・白タイ族などの山地民に分かれる。東北地方のラオ族は中部タイ族の支配下に入りイサン(東北人)と呼ばれている。華人は古くから移住していたが,19世紀以後その人口が急増し,タイ王室・王族・貴族と混血して上層階級へ同化し,今では外見上タイ族と区別しがたく,知識人が多い。約6万人のインド人は都市の織物商・番人などで知られ,約7万5,000人のヴェトナム難民は18世紀以来の移民で近年その数が増加しつつある。約100万の人口をもつマレー族は半島国境部4県に住み,マレー語を話し,イスラーム教を信じ,民族自立を唱えるパタニー連合解放組織をもつ。クメール族アンコール朝時代にタイを支配していたが,今では東北地方のスリン・シーサケット両県に20万〜30万人残っている。近年カンボジア国境から難民クメール族の入国が急増している。先住民のモン族は今ではバンコク近郊,ナコンパトム,ビルマのテナセリム山地部に分散しており,ビルマ国境部にはカレン族12万3,000人,ミャオ(メオ)族5万3,000人,ヤオ族1万6,000人,ムソ族1万6,000人,リス族9,000人が散在している。言語系統ではマレー語がオーストロネシア語族に,モン語とクメール語がオーストロアジア語族に,カレン語がチベット=ビルマ語族に属する。タイ語とラオ語はタイ=カダイ語族に,ミャオ語ヤオ語はミャオ=ヤオ語族に入る。文字は南インドのパッラヴァ=グランタ系文字がモン=クメール文字を生み,さらにタイ文字やラオス文字へと,またモン文字がビルマ文字をへて北タイ文字へと変化した。

【経済と社会】19世紀前半までの経済は米・チーク材・錫・砂糖・コショウなどの王室貿易が主体だったが,19世紀からアジア植民地向け輸出米単作農業へ転換した。戦後は輸出向けトウモロコシ畑作物を加えた多角的農業となり,1960年代から製造業やサービス業が発展し工業化の途上にある。1981年の一人あたり国民所得は年間759米ドルヘと成長した。しかし,外資と外国技術導入に依存する工業化は軍人幹部・高級官僚・華人系資本家への富の集中,都市の消費者購買力の不健全な高まり,都市と農村との所得格差の拡大,都市の潜在失業者の増大,地方産業の立ち遅れ,農地を手離した小作農の増加などの経済成長のひずみを生んだ。第5次経済社会開発計画(1981〜86)は絶対的貧困の減少,経済・金融面での安定維持,貧困層への教育・雇用を通じての社会構造の是正,経済社会開発と安全保障の調整などの主要目標を掲げている。石油のほぼ全量を輸入しているタイは1981年からタイ湾海底天然ガスの開発計画を進め,また総輸入額99億ドル中の23億ドル,総輸出額70億ドル中の11億ドルをしめる対日貿易の赤字幅(1981年現在)を是正するために,毎年両国間の定期貿易協議を重ねている。公衆衛生の分野では戦後の世界保健機構・ユニセフ・コロンボ計画などの援助を受け,マラリア・赤痢・コレラなどによる死亡率を低下させ,また産児制限も普及しはじめているが,1万人につき1.7人という医師総数と病床総数の不足がめだつ。教育の分野では1921年から初等義務教育(7〜14歳)が始まったが欠席者が多く文盲率が高かった。1960年代から経済社会開発計画のなかで教育の充実をはかり,ほぼ9割の義務教育就学率となった。また大学や職業学校の増設により都市中産階層知識人の発言権が増大した。社会面では都市と農村との生活格差がめだち,都市住民の年間一人あたり所得は農民の6〜7倍にあたる(1970統計)。近代工業都市は人口500万人弱のバンコク市だけで,第2の都市チェンマイは人口10万人,第3の町ナコンラーチャシマーは9万人弱の地方領主の古都といえる。バンコク市の上流階層には国王・王族・軍人高官・高級官僚・華人系財界人が,中流階層には一般官吏・軍人・会社員・教師・警官・華人商店員が,下層には肉体労働者・行商人・サムロ(三輪車)引きなど東北地方からの出稼ぎ人がいる。スラム街の民は近郊からの流入者と中部地方農民移住者が多い。農村社会では核家族を主体とし,男女の分業は明確でないが長幼の序を重んずる。姓を名乗ったのは1916年以後のことで,今でも個人名で呼び合い,某家の家名を継ぐ習慣はない。村長と僧侶と長老を主体とする村社会には日本のような厳しい規範はみられない。

【政治】1932年の立憲革命で絶対君主制から立憲君主制に変わったが,文治派政権は1944〜48年と1973〜76年の短期間しかつづかず,プレム現政権にいたるまで軍人政権が主役となっている。憲法は主権在民を建前としているが,国民は国王を崇拝し,国王への忠誠を誓い,国王も仏教最高守護者として国民へ恩愛を施す。総理大臣は国王が親任し,国会議員の資格を条件とせず,約30名の正副国務大臣も国会議員以外の軍人・官僚・財界人・学者が参加している。副・総理格の内務大臣は国内治安を維持する警察軍を握り,国防大臣と並ぶ軍人政権の両輪の役割を担い,内務官僚の県知事・郡長を指揮して地方行政を監督する。特定自治体の市町村は総人口の27%の住民に限られ,大部分の町村では村の長老が町村長や部落長に選出され,郡長の指示に従って町村行政を扱う。司法権は最高裁判所に属し,その指揮下に高等裁判所と県・地方・青少年の3裁判所がある。イスラーム教徒が多い南部4県ではイスラーム教徒の判事がその慣習を考慮して裁判を行う。民法・商法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法等の基本法を1930年代末までに制定し,治外法権撤廃後の裁判権の自主性を回復したが,その法律の条文が簡潔なので法解釈は判事の裁量権に委ねられている。約3,000名の弁護士の3分の2は首都に集中し,刑事事件と商事紛争や地方の土地紛争を扱う。弁護士数が少ない最大の理由はタイ人が係争を好まず村の長老・僧侶・有力者に調停を依頼し,裁判所への提訴を避ける風習にあり,詐欺・横領罪,強姦罪については補償金と和解に持ちこむ例が多い。殺人犯の検挙率が約20%にすぎない事実も伝統的慣行のなごりを示している。立法府は上下両院に分かれ,100名の上院議員は内閣推薦の勅任議員で軍人・官僚・財界人・学者が多い。266名の下院議員は各県の1〜3人区から選出される。政党の拘束力は弱く,党議を離れた議員の言動のために議決が左右されやすい。離合集散を繰り返す政党の連立内閣は与野党支持勢力の順列組み合わせがめまぐるしく変わる。1983年春の下院議員総選挙では軍人の行政府介入に反対する社会行動党(党首ククリット)が92議席を獲得し第1党となったが,その直後の党籍変更によって軍部支持のタイ国民党(党首プラマーン)が108議席を集め,プレム大将の現政権を支えた。その軍部内でも前総理クリアンサク大将派の対抗勢力が巻きかえしており,プレム政権の支持基盤は流動している。外交面ではヴェトナム戦争後にこれまでの反共政策を変更し,1975年に中国との国交を樹立,カンボジア難民の受け入れ,ヴェトナム軍のカンボジア撤退要求など多大の外交努力を払っている。1976年創設の東南アジア諸国連合(ASEAN)の発起者として欧米先進国や日本との拡大外相会議を通じて,地域経済開発へ向けての経済協力と技術移転を推進している。

【前近代史】紀元前,数世紀にわたり雲南や北ヴェトナムのドンソン文化が東北タイヘ拡まっていた事実を同地方のバンチェン遺跡から1960年代に発見された彩色土器や青銅器が物語っているが,この文化を担った民族については明らかでない。文献によると7世紀にモン族がメナム河中流域を中心としてドヴァーラヴァティ朝を建てた(7〜11世紀)。ビルマのモン族王朝ペグーとともに仏教文化が栄え,外国と盛んに交易した。9世紀になるとカンボジアのアンコール朝クメール族がモン族を支配し,11世紀にはタイ族もメナム河中流域へ南下した。タイ族は13世紀中ごろ元朝の雲南遠征とアンコール朝の衰退に乗じてスコータイ朝(1240ごろ〜1378)を建国し,メナム河中流域を中心にラオスからマレー半島に及ぶ大勢力を築き,元朝へ朝貢した。スコータイは中国人陶工を招いて宋胡録(スンコロク)の陶磁器を生産し,その輸出品は日本の茶人に珍重された。セイロン系の上座部仏教(小乗仏教)を国教とする仏教文化が栄えたスコータイも14世紀中ごろアユタヤを中心とするタイ族の支配下に入った。アユタヤ朝(1351〜1767)はクメール族の文物制度を取り入れ,神聖な王権を強化して行政組織を整え,15世紀後半にはサクディナー身分位階制)を確立した。1431年に東方遠征しアンコール朝を滅ぼし,また明朝へ毎年朝貢貿易をつづけ,16世紀後半にはマレー半島の港市権益をめぐりビルマのトゥングー朝と争奪戦をつづけた。17世紀に入ると西欧人の商業とカトリック布教の勢力が来航し,貿易港市アユタヤには欧人商館・中華街・日本人町が現れた。17世紀末には王宮重臣となったフォールコン(ギリシア人)が王位継承争いに介入し失脚し,その後にオランダを除く西欧勢力が衰退し,18世紀前半にはタイ族固有の仏教文化の黄金時代を迎えた。しかし,後半になるとビルマのコンバウン朝(別名,アラウンパヤ朝)勢力が侵攻し,1767年にアユタヤは廃墟と化し,王朝は滅亡した。華人系タイ人タークシンはタイ軍を整えてビルマ軍を駆逐し,メナム河下流域のトンブリに都を移したがわずか15年でトンブリ朝は消滅した。1782年部将チャクリが仏教僧団の支持を得てタークシンを退けラーマ1世(在位1782〜1809)となり,都を対岸のバンコクに建設した。このバンコク王朝は別名チャクリ朝またはラタナコーシン朝とも呼ばれる現王朝で,アユタヤ朝の法令を集大成した『三印法典』を編集し,また清朝との朝貢貿易を推進するとともに,華僑が栽培する砂糖をシンガポールヘ輸出し,代わりに銃砲を輸入した。1820〜30年代になるとビルマ戦争に勝ったイギリスがタイとの制限つきの貿易協定を結び,王室独占貿易の権益を侵害されることとなり,つづく1855〜56年に王朝は英・米・仏3国と相次いで修好通商条約を結び,自由貿易への門戸を開放した。

【近現代史】ラーマ5世(在位1868〜1910,別名チュラロンコン大王)は文明開化と中央集権の統治機構近代化を進めたタイの明治天皇といわれる。国王は外国人政府顧問の指導助言により近代官僚制度,軍隊・学校教育制度を文明開化し,またメナム下流域に運河網を開さくして輸出米増産体制を整えた。欧米のアジア植民地のなかでタイ王国だけが独立国として生き残った理由は1896年の英仏協定でタイを両勢力の緩衝地帯とし,植民地向け米倉として扱うという合意によるもので,その代償としてタイは国境領土を1904年フランスヘ,1909年イギリスヘ譲った。20世紀に入るとタイは第一次世界大戦で連合国側に参戦し,戦後には国際連盟に加盟し国際社会へ参加するようになったが,1920年代になると平民出身の知識人層のなかから王族中心の絶対君主制を打倒し国家財政を再建しようという声が高まり,やがて世界経済不況・緊縮財政・人員整理・失業などの圧力が重なり,1932年の立憲革命となった。憲法を制定し,民主国家の第一歩を前進したタイは数年間保守・革新勢力の抗争や王党派の反乱がつづいたが,ピブン政権(在任1938〜44)が長期安定政権を保持し,国民精神総動員運動を展開した。彼は「国家信条」(1939〜41)を制定し,国名をシャムからタイヘ改め,洋服・帽子など文明国民にふさわしい服装と態度をとるように命じ,また民族産業を育成するために華僑の経済支配を抑制し,そのタイ国民への同化を促した。1940年にはインドシナ国境領土の返還を果たし,日本軍が駐屯していた太平洋戦争期には特別円借款による軍需物資を調達,1942年米・英両国へ宣戦布告し,1943年英領ビルマ−マレー国境領土の奪還を果たした。1944〜45年になると抗日自由タイ勢力がピブンに代わって政権を握り,米印軍進駐下の戦後タイの復興に努めた。政界へ返り咲いたピブンの戦後政権(在任1948〜57)は反共親米政策を掲げ,1954年東南アジア条約機構(SEATO)に参加し,ヴェトナム戦争の米軍基地を提供,米国の軍事・経済援助のもとで経済開発をはかった。1960年代になるとビプン元帥失脚の後を受けたサリット元帥の政権(在任1958〜63)が民間外資導入による産業奨励政策を唱えて工業化への途を開拓するとともに,東北地方の農村社会開発に力を注いだ。1970年代のタノーム元帥の政権(在任1963〜73)は開発政策が生んだ革新勢力の社会正義・公正・平等を求める1973年学生革命で崩壊し,文民政権(1973〜76)期を迎えた。この時期の労働組合ストライキや農民連盟の小作農解放運動などいきすぎた民主化に対する警戒心が1976年保守派革命を生み,やがて戒厳令下の軍人政権が国内治安維持政策をとるにいたった。プレム大将の現政権は軍人・官僚の政治介入を批判する革新諸政党とタイ国民党などの保守勢力との均衡を保ち政局の安定をはかっている。

【思想・宗教】〈弛緩したタイの社会構造:束縛された日本の社会構造〉とアメリカの人類学者エンブリーは両国民の価値観を対比しているが,タイ人には祖先崇拝,伝来の「家」思想,血縁・地縁社会の団結の面で日本人ほどきびしく集団に束縛されない。戦前では広大な国土に少数の農民が住み,個人中心の行動が比較的自由だった。長幼の順序を守り父母や年長者の意見に従う習慣が強く,また年長者や上司は若者や目下の者に恩恵を施すという独自の上下身分関係があるが,命令に絶対服従する軍隊の規律や愛社精神といった厳しさに欠け,団結心に乏しい。サヌーク(楽しい)・サバーイ(快適)・チューイ(あくせくしない)・マイペンライ(おかまいなく)・チャイジェン(冷静)の価値観を好み,キーニィオ(けち)な能度をきらい,現在の一刻の享楽を求め,チャオナーイ(官僚)の権威に従って平穏な争い事のない生活を送りたいと願う。信仰の自由は憲法に保証されているが,仏教国タイでは国王が仏教の最高の守護者で国民の93%が仏教徒,3.9%がマレー族のイスラーム教徒,1.7%が華人儒教徒,0.6%が山地諸族のキリスト教徒である。仏教はパーリ語経典を奉ずるセイロン系上座部仏教(小乗仏教)で,黄衣の僧は戒律を守り聖と俗を区別し,朝の托鉢,1日2回の食事,読経と学習・冥想の生活のなかで個人の解脱(げだつ)を求め,大乗仏教僧のように俗界の衆生(しゅじょう)救済に乗りだすことはない。全国に2万5,000のワット(寺院)と30万人の僧侶がおり,サンガ(教団組織)に所属するビク(出家者)はマハーニカイ派とタマユット派(ラーマ4世が創設)の各管区長のもとに統轄されている。サンガはナーブン(福田)つまり個人のタムブン(功徳を積み善い福を得る)の場であり,成年になった男子は雨季の短期入門を望む。女子は入門できないが托鉢僧への喜捨,寺院への供物,祭りの際に籠の小鳥を放免するなどの功徳を積み至福を得る。民間信仰では各家庭の庭隅にあるピー(精霊)の祠を祭る。土地守護神のピーは農村部では病を招く悪霊ともいわれ,モー(呪師)やプラム(バラモン師)を招き邪気を祓いクワン(生霊)を守る儀式を行う。宮廷儀式のなかにはバラモン師を招き五穀豊饒を祈る春先の犂おこし儀礼がある。マレー半島住民のマレー族はマレー語を話し,イスラーム教の戒律を守り民主自治の気運が強いので,政府はキリスト教徒や精霊崇拝者が多い北部山間民族と並んでこれらの少数民族をタイ国民として同化する途を慎重に検討している。

【文学・芸術】タイ文学は詩韻の楽しい響きを大切にする。スコータイ朝の『ラーマカムヘン王碑文』はタイ字で記した散文体の芽ばえで,『トライプーミカータ(三界経)』は仏教文学の幕あけといえる。アユタヤ朝では散文と詩を混ぜたリリット形式の物語やシープラートの『カムスワン(悲歌)』などの詩が,18世紀にはターマチベット王子の詩が名高い。バンコク朝ではインドの『ラーマーヤナ』,中国の『三国志演義』,ジャワのイナーオの翻訳文学や民間説話の長編詩『タンチャンクンペーン』が現れ,現代文学ではククリットの『王朝四代記』の長編宮廷小説や女流作家ドークマイソットの恋愛小説のほか,SEATO文学賞の1970年度受賞作ホータンの『タイ国からの手紙』,1971年度受賞作スワンニーの『その名はカーン』など庶民生活を描いた小説がある。近年ではウイタヤコーンの『よりよい世界のために』など新世代派の現代社会批判の作品が若い世代の人気を集めている。タイ族固有の美術が現れる以前の文化遺産には紀元前の東北タイのバンチャン遺跡から発掘された彩色土器や青銅器,インドのグプタ様式を伝えるドヴァーラヴァティ美術(7〜11世紀)のテラコッタ(泥像)や青銅仏像やヒンドゥー神の石像,マレー半島発見のシュリーヴィジャヤ美術(7〜14世紀)の観音青銅像,カンボジア文明の影響が強いロッブリ美術(12〜13世紀)の石仏・青銅仏・ヒンドゥー神像などがある。タイ族本来のスコータイ美術(13〜14世紀)の代表作には遊行仏(ゆぎょうぶつ)の青銅像があり,北部のチェンセン派の青銅仏座像にはインドのパーラ様式の影響が,また南部のウートン美術(12〜15世紀)にはクメール様式の影響が強い。スコータイの宋胡録の陶磁器は14世紀に中国陶工が窯を開いたもので,日本の茶人に愛好された。アユタヤ美術(14〜18世紀)になると中国画の流れを汲む仏画に金箔をはりつけた民族固有の画法が生まれ,次のバンコク期美術(18〜20世紀)の寺院壁画にみえる金箔技法へと展開する。キンマ塗り漆工芸品は竹細工品の表面に黒漆をぬり文様を線刻し,さらに別色の漆を重ねて研ぎだす伝統工芸品で,「シャム染め」(江戸時代の日本で珍重されたサラサロウケツ)や金箔細工品とともに今ではチェンマイ地方の輸出向け工芸品となっている。古典劇にはコーン(仮面劇)とラコーン(舞劇)があり,金色に輝く仮面や衣装,伝統的な木琴・鉦・太鼓・三絃琴・ラッパなどの楽器を用い,『ラーマ王物語』などを演ずる。民族舞踊にはラムウォン輪舞)やラムトーン(鼓踊り)があり,籐・竹製の笛や太鼓に合わせて踊る。ナン(影絵劇)の『ラーマ王物語』は今でも大衆娯楽として名高いが,フン(人形の背後から糸で操る古典劇)の愛好者は減少している。

〔参考文献〕綾部恒雄・永積昭編『もっと知りたいタイ』1982,弘文堂

石井米雄「インドシナ文明の世界」『世界の歴史14』1977,講談社

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