●村落共同体 そんらくきょうどうたい
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村落を単位に,農業に基づく自給自足経済を営む地縁的社会結合。【成立の要因】農民が地縁的社会結合をするようになったのは,資本主義以前は農業生産規模が小さく,経済力も弱体であり,さらに農業技術水準も低く,農民が自力で個々に生産装備(灌漑用水の維持・山林原野の管理・道路の開通及び復旧工事等)のすべてを調達することができなかったからで,共同によってそれを補完したことに始まる。また日本では生活面においても,祭祀や冠婚葬祭が家を単位として社会関係をとり結んでいた。村落共同体の成立はいつごろであるかというと,古代や中世前期においては,小地域内における農民の社会的結合の具体的なことはわからないが,まだそれは弱体であったと思われる。その原因は国家や領主による在地掌握が強力であり,直接生産者の自立度が弱く,村落共同体の形成は困難であったようである。したがって,13世紀末以降,小百姓や名子などが小農に上昇し,上層名主の主導によって農民結合が生じてくる惣村に村落共同体の原型が見出され,近世になって展開したといえよう。
【構成単位としての家共同体】村落共同体に単一の家が直接に個々に列なるのは,村民全般が自立度を高めた村に限られ,多くは家共同体(連合)を介してである。家共同体の結合タイプには種々のものがある。[1]頭百姓と脇百姓(平百姓),これは族縁(血縁)またはそれを擬した関係で,一般に「一家」または「株」と称せられ,観念的に同一先祖であるということによって結合された。したがって頭百姓は一家の頭・苗頭である。[2]おとな百姓(親方)と子方百姓,これは経済力の有無がその結合を必然化した。子方百姓は譜代または家来とも言われ,もともとおとな百姓の従属者が自立したもので,自立度を高めてからは「出入の者」と言われ,以前よりは従属度が弱まっている。[3]本家と分家,家族員の一員が生家から財産分割をうけ,新家を創立して生家との間に生じる関係。この関係は世代を重ねたり,孫分家を出すようになると[1]に包括される。一村単位に見るときは,一つのタイプだけのものもあるが多くは複数であり,また時代を経るとタイプが崩れて混型したり,先進地では姿を消している。しかるに後進地では明治を経て昭和期にまで[1]の同族結合が温存されている例がある。京都府(旧丹波)何鹿郡放与木村では,惣山の一部分を毎年各戸に2反を分け,山にして割援したが,1886年(明治19)その協議に昔の五人組頭10人のうち5人と,株親5人,村の代表5人が出されている。また1883年の旱魃に番水をしたが,その分配の協議にも五人組頭と株親が主導権をにぎっている。また1918年(大正7)一農民は新有地の一部を売渡しするに際して株中の了解を得,売渡代金の34%を株中に差出している。要するに後進地では,遅くまで共同体慣行が同族結合の発言を無視し得ない仕組みになっていたのである。
【共同体維持のための村役】近世において役屋の負担する家役は,17世紀半ばに役米や役銀に改められ,年貢化されて石高制に包括されたが,用水や山林や道普請等の共同体の村役(夫役)はそのまま残された。村役がどれくらいの負担になるのか伊予西条藩(新居郡)松神子村で見ることにしよう。当村の村役は本田395石のみに賦課し,庄屋は持高のうち60石,組頭40石,鍛冶24石,そのほか36石が免除され,残りの235石が対象となっている。また高の多い8石以上は出役日数が多くなるので,報酬米(1日米1升5合)を出して高持に代役させており,それが全体の60%に達している。村役は本役として普請と山役,その補助的なものを小役と言っている。出役は災害の多い年には1石に対し14日であるが,平均して6日ぐらいである。仮に5石を所持している年に30日である。1816年(文化13)の普請役のみをあげると,表1の通りである。
〔参考文献〕岡光夫『近世農業経営の展開』1966,ミネルヴァ書房
岡光夫「封建貢租および農民諸負担の徴租様式」『社会科学』1〜1・2合刊
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