●村落(日本) そんらく
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村落には多様な側面がある。景観的には集落と呼ばれ,生産機能からは農村・漁村などと呼ばれ,社会的・文化的単位としては共同体またはムラと言われる。また行政上は村とか区と呼ばれる。各語の包含する意味は大きいが,一般的には,村落とはいわゆるムラのことであり,何よりもそこで生活する人々の“生活の場”として理解すべきである。【村落の生業と土地利用】村落における生業は主に農業(牧畜を含む)・林業・水産業などの第一次産業である。これらに対応して村落は農村・林業村・漁村と分類される。また村落の位置によって平野村・山村・海村と分けられる。しかし通常は,これらを混用し,農村・山村・漁村としている。村落はその生業の示すように,一定の土地を利用して生活が営まれ,経済の自給性・閉鎖性は元来,一般的に高かった。
日本の農村景観の特色は水田の存在である。集落を取りまいて水田および畑が広がり,そのための灌漑・排水の水路が設けられている。ヨーロッパでは耕地に対する灌漑はほとんど見られない。我が国の水路については共同で利用し,種々の水利慣行が存在している。耕地を取りまく里山の森林・採草地も村落の共有地となり,種々の入会慣行が存在していた。これらは薪炭・建材・飼料や堆肥用の落葉などを供給していた。 我が国の山村は,山間にあっても農業を主な生業としている場合がほとんどで,林業・製炭・狩猟・木地師・たたら製鉄などで生計を立てる場合は少ない。今日では,建設業やスキー民宿などの観光業も山村の生業の一つである。山村では水田はもとより常畑の規模も小さく,人々は里山を切替畑・焼畑として利用し,雑穀・豆類・芋類などを自給的に生産していた。さらに,集落から遠く離れた林野までも出作り耕地を行うこともあった。
漁村も,多くの場合は農業の比率が漁業よりも高く,純漁村という場合も若干の農業経営を行うことが多い。一般的景観としては,家屋密度の高い集落の付近に畑・水田が広がり,その背後に森林・カヤ場・採草地が広がり,その多くは共有地である。集落の海側には船付場・網干場・加工場などに利用される浜地と,採貝草やそのほかの漁労に利用される専用漁場が広がっている。これらは村落の共有となっており,種々の慣行が存在する。こうした空間と水産資源を活用し,観光業の比率を高めている漁村も多い。
村落の生業としては,以上のほかに木材工芸,機業・撚糸業などの繊維工業,近年では種々の機械部品製造業などの比率の高い工芸村・工業村も多い。しかし,そこにおいても農業は営まれている。
【村落の形態】村落は,文化・生活様式や歴史的・社会的条件,自然環境を反映し,多様な形態を呈する。村落形態の分類は,屋敷群の密集度と配列の差異によってなされている。つまり,密集の程度によって集村・小村・散村に大別され,配列の規則性と村落成立の過程によって,自然発生的村落と計画的設定村落とに分けられる。
集村のうち不規則で塊状の配列をなすのが塊村である。その規模については10戸以上から30戸以上まで,さまざまな説がある。塊村が成立するのは,水を得て管理したり逆に水害を避ける所が限られる場合や,防衛,さらに共同体的結合の強化などのためである。さらに,土地生産性の高い集約的稲作農業がこれを可能にしている。
屋敷が散在する散村は,我が国では比較的少ないが,礪波平野・黒部川扇状地・大井川下流域・島根県斐伊川下流域・岩手県胆沢扇状地などに見られる。散村形式の要因としては,開発・農業経営が私的であること,耕地の田地化による効率的経営・防御の必要がなく,水利上地域内で不便な地がないこと,藩の開拓政策などがあげられる。北海道に1875年〜1899年(明治8〜明治32)に設けられた屯田兵村も散村の様相を呈するが,区画はアメリカのタウンシップ制を範として方形かつ一定となっている。
【村落の社会生活】各村落は,耕地などの開発,水利施設,山林・漁場などの整備と管理,農業・建築などの作業における必要上,強固な社会的結合体つまり村落共同体をなしていた。この社会では,構成員は同族などの血縁的諸関係や同一の氏子集団であることを精神的紐帯とし,様々な取り決め,村八分などの統制,相互扶助が見られる。また,都市とは異なって狭い地域に長く居住する閉鎖的社会であり,構成員は互いの家と人物を了解し合う fece to face の関係が成立している。今日の共同体は,民主化や商品経済の浸透,生業の近代化・省力化,モビリティの増大に伴い,共有地を解体するなど経済的機能を失ってきている。しかし,葬式・人生儀礼・祭礼・見舞いなど生活面では機能を残存し,共同体意識を変容しつつも維持している。村落共同体を鈴木栄太郎は自然村と称した。これは明治以降人為的に設定された行政村に対することばであった。自然村は必ずしも旧来の藩制村や大字に一致するわけではないが,明治初頭の17万余という旧村(大字)数が一つの目安となり,のちに設定された行政村1万2千に数倍するものがあったのである。規模について鈴木は,平均45〜150世帯と推定している。彼は自然村を家を単位とした社会集団の集合体と性格づけた。この自然村を一共同体として機能せしめるのが,同族・親族・講組といった社会集団である。
有賀喜左衛門は,村落社会結合の概念として同族と講組を提起した。同族とは父系出自集団であり,本家分家と序列化されたタテの集団である。同族集団の典型は東北地方のマキの名称の分布する地域に見られる。そこでは分家が農作業などで本家に労力を提供し,本家は分家を物心両面で保護する関係が存在した。なお北陸では,東北的な主従関係を有する同族集団は存在しないが,擬制的親子関係による主従的社会組織が見られる。
講組(村組)は近隣関係に基づく地縁的生活共同体であり,系譜的従属関係はなく,各家が同等のヨコの関係で相互扶助を行う。その機能は葬式から祭礼・農作業・土木建築・経済的援助など多岐にわたる。この講組は関東から西の西南日本に顕著である。この地域には年齢階層制も見られ,年齢別に子供組・若者組・娘組・壮年組・老人組などが結成されている。
【村落の歴史的展開】古代の弥生時代には,すでに集落・水田・畑のセットとしての村落が成立していた。大化の改新の前後には班田収授の法の施行のため,畿内及びその周辺の平野部を中心に条理が設けられた。しかし,集落自体は計画的ではなく,自然発生的な塊村の形態であったとする見方が強い。
中世に入ると,荘園内の有力名主や豪族による林野の開墾が行われ,彼らの屋敷を中心に下人・奴婢などが居住する名田百姓村や豪族屋敷村が成立した。後者を指す地名として,堀ノ内・根小屋などがあげられる。また中世後期から,近畿地方を中心として惣と呼ばれる小百姓層も含んだ組織が成立し,共有地や用水を管理するようになり,村落共同体の実体を徐々に形成していった。
今日言われるような意味で村落共同体やムラが確立するのは近世である。近世の幕藩体制下では,小農を本百姓化し,村切りを行って全国的に支配単位の村(藩制村)を定め,土地に対して課税しこれを村請けにした。村には村役人こそ置かれたものの彼らも村人の一員であり,実質上村には一定の自治機能が生じた。幕府は農業の発達に力を注ぎ,乏水性の台地・火山麓や海岸などの低湿地に耕地を拓いた。このため整然と計画された地割り・屋敷の配列を有する新田集落が出現した。
藩制村は1889年(明治21)まで存続し,以後町村制の下で合併が進み,行政村と自然村はほとんど一致しなくなった。近世後期から農民層分解は顕著となり,地主小作制が表れたが,第二次世界大戦後の農地改革により解消した。高度経済成長期以降,都市への人口流出・過疎化・農業近代化・商品経済の浸透・生活の都市化が進行した。1970年(昭和45)には人口集中地区人口が50%を超え,村落共同体の経済的機能はほとんど崩壊した。