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●村落(中国) そんらく

アジア 中華人民共和国 AD 

【殷・周時代】殷・周時代は氏族社会であった。氏族は「邑(ゆう)」と呼ばれた居住集落をもち,氏族が耕地を所有し,農耕作業も氏族単位で行った。農業以外に牧畜・狩猟も共同で行い,これに必要な牧草地なども所有していた。周代には水田農業が始まり,農器具や灌漑施設などを氏族が整備していった。

春秋戦国春秋戦国時代は,氏族制度が大家族制度に移行する過渡期であった。氏族は人口増加によって,一部のものが邑を離脱して新天地に移り,開墾に従事したことから解体が始まった。開墾には鉄製農具が役立った。移住者は夫婦と子女のほか,若干の兄弟叔伯などを含めた大家族の集団で生活をした。移住先には新しい村がつくられ,灌漑・相互援助・防衛などを村単位で行った。同じ氏族からの分村もあるが,他の氏族からの移住者を含めた村が多かった。いずれにしても基礎社会は氏族ではなく家族となった。村は家族がつくった地縁社会であったから,その土地の神すなわち社を祭り,社の信仰を柱として村の結束を固めた。

【秦・漢・隋・唐時代】秦・漢から隋・唐に及ぶ律令時代には,邑は解体してすべての集落は村となった。聚とか邨の字も用いられ,村の周辺に城壁を築いた場合が多かったので(城壁の意)と記された例もある。村は強固な団結を誇る社会集団であって,全村は一家として家族制度に準ずる体制で固まっていた。

 この時代には,コシキョウ※注1※の『斉民要術』に記されているとおり,旱地農法の発達によって,華北の平原は灌漑用水がなくても雨水だけで農耕が可能となった。耕地面積は激増して数千万の人口を養うことができた。主作物は小麦である。耕作には集約労働を必要とした。全家族員は平等に待遇され,家の利益が各家族員の利益と一致する共同体となっていた。同時に家父長専制がしかれ,家族は家長の命令には必ず従うという体制がつくられた。水田農業は超重労働による集約作業だったから,全家族が労働に熱意をもつと同時に,どんなにいやでも家長の命令に従って働くことが必要だったのである。

 村はこの家族が単位でつくられた社会集団で,家長にあたる父老と家族に相当する子弟から成り立っていた。父老も子弟も村の団結を第一に考えた。それは,村にとっては必要なだけの土地を確保するために村をあげて新しい開拓に従い,また土地と水の利用について,全村民の利益を考慮しつつ家の労働力に応じた利用を工夫せねばならなかったからである。均田制度は,村が主体となって全村民の生活を保障するための制度であり,働ける者には土地を与え,老人や寡婦や障害者には生活保護を与えた。農地だけでなく,山林や牧野や河水や泉水についても,外部に対しては村全体の利益を守り,内部に対しては村民の平等な利用をはかった。治安についても村民は相互に信義を重んじて村内では紛争をおこさず,村外に対しては集団的利己主義に徹していた。だから村は共同体として全村民の生活を守ったが,同時に子弟は父老の命令に絶対に服従し,家長に対すると同じように父老の専制支配を認めていた。

 村には守護神として社が祭られていた。年の豊凶や人の寿命の長短は社の神意できまると信じられていた。村が疫病に見舞われたり干ばつにあったりしたときは,全村をあげて社の祭りにつくした。この信仰は父老の専制権力を絶対化し,子弟の恭順を促すうえでの切り札となった。同時に神は全村民に対して安全と幸福を保障したから,子弟の保護は父老の責任とみなされた。村は祭祀共同体であり,社の権威が村の団結の源泉となっていた。

 村の役割は,唐の神邑の例で明らかな通り,興農と郷党の親和にあった。興農では,自然を最大限に利用し灌漑や旱地農業を共同で推進した。そのために農業の改良・普及と労働力の有効利用が重視された。村民に対して,勤勉とか家父長への恭順などを徹底させる精神教育が実施され,儒教的道徳が農業生産の基本とされた。郷党の親和では,村内に家屋を失なった人が生じたときは,自分の家の一部を用立てるとか葬儀を共同で行うとか,救援を要する人に助けの手をさし伸べるとか,慶事に当たっては金や労力を出し合うとか,その他村民全体が何ごとであれ助け合って生きていくことに努力している。

 安史の乱を境に律令的な村落は急速に衰退し,五代・宋以降,封建的村落に移行していった。士族は没落し,代わって大土地所有者=形勢戸が村の支配者となった。形勢戸は,チンホウ※注2※の『農書』に記されている通り,水田農業の技術を発達させ反あたり生産力を倍増させた。その結果,これまでの畑作自作農に代わって水田小作農が主要な生産者となり,大地主の農村支配を確実なものにした。地主と小作農の間には,法的にも封建的な支配=隷属関係が設定された。

【宋・元時代】宋・元時代の村は,一般に社と呼ばれている。テイコウ※注3※・陳襄(ちんじょう)・朱子(しゅし)・真徳秀(しんとくしゅう)をはじめ,社共同体の育成に尽したのが宋学者である。有名なのは呂氏郷約であって,その患難相恤(かんなんそうじゅつ)の項には,村が水火・盗賊・疾病・死葬・孤弱・誣枉・貧乏のことで,互いに助け合う約(法)を立てている。こうした努力の積み重ねにより,元に入ると社規が制定されるようになった。その一つ,『元典章』に紹介されている『勧農立仕事誼』所収の社規には,次のことが記されている。社では農桑に習熟した者を社長とする。社長は社衆を率いて村をあげて農業に努めさせるとともに,農業指導を行い,風土と水利を考えた作物の選定と耕作方法を具体的に指示する。田には耕作者の名を書いた立て礼を建てさせ,一人一人の勤惰の点検を行って,その実績を追及する。こうしたことは社長の責任となるが,社長の指示に従わない者は村八分とし,無理にでも強制していくわけである。また,社規は桑や果樹を植え,魚や鶏を飼うことを勧めている。農耕は,熟地の場合は共同耕作で細耕細作を,荒地では雑草を焼却するほか,形勢戸が放置している土地の開墾も行っている。土地とならんで水利の開発と,灌漑施設の共同建設の推進を求めている。蝗害予防の具体的方法も詳述している。社規では共同体としての協力を強調し,とくに社衆の相互援助を強く求め,病気などで耕作のできない家や,牛がいなくて深耕のできない家に対しては,衆が共同して事に当たるよう求めている。

 宋・元時代の地方志には,しばしば社の活動状況に関する記述が見出される。社は学校を設置し,学師を招いて社衆を農閑期に入学させ,『孝経』など経書を読ませて孝悌忠信の儒教思想を学ばせている。また社倉(義倉とも呼ぶ)を建て凶作に備えた例もある。このほか宗教行事を行い,婚姻・家財・田宅・債務に関して生じた社内の紛争の解決に当たる。これらの事業は共同体としての結束を固めるのに寄与するとともに,形勢戸の支配体制を安定させるのにも役立っていたのである。

 宋の弓箭社と元の鋤社の例に見られる通り,この時代には村の農耕作業は共同して行っている。蘇軾(そしょく)は,村においては数百人が一団となって,太鼓をならすものと時間をはかる者の指示のもとに,いっせいに農作業を行っている姿を描いている。王禎(おうてい)の『農書』にも,除草作業のとき,鼓をうち鉦をたたくことで気力をひきたて,労逸を適度に調整したと記している。田植歌についても,鄭樵(ていしょう)の「挿秧歌(そうおうか)」をはじめ,農民が集団で田植歌をうたいながら農耕に従っている姿を描いた作品は少なくない。こうした共同労働は,農繁期における村全体の労働力の絶対的な不足をカバーするために行われたのである。

【明・清時代】元末にはすべての村が土崩瓦解する。ついで明初に新たに村作りが始まる。元とともに形勢戸佃戸の間に見られた封建的隷属関係は消滅し,明代には農業経営者としての地戸が登場する。徐光啓(じょこうけい)の『農政全書』などに見られる通り,水田農業だけでなく,それ以上に養蚕業と棉花・野菜・煙草などの商品作物の栽培が重要である。こうして米麦も商品として生産されるようになったわけである。また農村では,都市の手工業生産の商品を購入し,全体として小商品生産の段階に入ったのである。

 明・清の農村も一般に社と呼ばれていた。社は,地戸(土地所有者)全員がその所有地面積に比例して発言権をもつ地戸共同体であった。地戸大会といわれる集会も開かれ,「公議」すなわち地戸の世論が尊重されたが,実際の決定権は大地主が握っていた。村役場では大会で選ばれた3,4人の会首が集団で村長の任に当たり,村政の執行に任じられた。会首は大地主の力を結集する形で選考されたので,小地主や自作農は地戸ではあっても実際には発言権はなかった。村役場には書記や警察などの雇用人がいたが,彼らが会首の手先として働いたのはもちろんである。

 村内の自作・小作・雇農は,平安社・太平社などと呼ばれた農民団体をつくっていた。これは最初は宗教団体であった。道徳律を示す功過格によれば,人間の禍福は神への奉仕の度合いで決まり,たとえば村の寺廟への寄付額や祭典への出席率で決定された。農民は農作と無病息災を願って農民団体をつくり,宗教活動を行った。地主は小作米を得るために,農民が健康で豊作に恵まれることには反対しなかったので,農民団体の活動は公認された。しかし農民団体としては,天災人禍のとき小作料の引き下げを要求し,また平素でも自作農以下の利益を守るため農民運動をおこすことになった。自作農は農民だが,地戸でもあったから,社の大会で農民団体の立場を代弁することもあった。ゆさぶりの結果,村役場の運営にも,農民団体の代表を小会首として加えるケースも生じた。ときには農民団体が社を制圧してその実権を掌握し,地戸共同体を農民共同体にすりかえる場合もあった。こうした傾向が一般化した場合,李自成の乱とか太平天国の乱などの事実上の農民戦争が引き起こされたわけである。

 明の教民榜文六諭,清代の五種遺規,また数多くの社規や州県志の記述によれば,明・清時代の村落では,婚姻と喪礼・金融(銀会・銭会)・治水灌漑(水神社・聚義社・雨乞い)・害虫駆除・盗難防止(保甲制・看青)・村民福祉(落穂ひろい・育嬰)・防衛(連郷・械闘)などで村民活動が見られる。むろんその中には,村民の一部有志で行っている場合もあるが,社の事業となっている場合もある。私の調査によれば,清代以降の村の事業としては,官庁業務(税金・治安)・自衛(団練郷勇・保衛団・械闘)・警察(夜警・看青・疫病駆除)・裁判・農政(雨乞い・灌漑・害虫駆除)・公益(飲料用井戸・道路橋梁渡津・河川工事・学校・社会事業)・祭祀などがあり,広範囲にわたって活動している。事業は主として村役場が担当し,会首の責任のもと,農民団体をもまき込んで共同体らしい運営となっている例が多い。

【近代】中華民国の村は基本的にいって清代と大差がない。中華人民共和国では,農民団体の活動により新民主主義政権を成立させ,続いて土地改革も農民の力によって成功を収めたのであるが,その後,人民公社に進む過程で村と政治権力の二人三脚がくずれ,現代化政策のなかでも村の協力が十分に得られていないのが実情である。

〔参考文献〕清水盛光『中国郷村社会論』1951,1983再版,岩波書店

今堀誠二『中国封建社会の構造』1978,日本学術振興会

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