●村落(西洋) そんらく
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【原初形態】人間は歴史時代以前,古くから農耕生活を開始し,これと前後して定住を始め,定住はある程度の規模の集団によって行われた。この集団が血族=拡大された家族=によるものか,あるいは武力・知力の優れた統率者によって組織された非血縁者の集団によるものかについて,歴史家の見解は一致しない。ともあれ,長期間にわたって行われた定住の核が村落であることはほぼ間違いない。また,初期村落が血族集団によって定住されたとしても,史料的に検証できる時代となるまでに,村落内部では地縁的関係が優勢となっていたことも確実である。村落の一部は早くから都市となっていた。古典古代期は都市の繁栄が村落の姿を隠蔽した時代であった。ところが,ローマ帝国の滅亡,あるいはゲルマン民族の大移動により,歴史の重点は都市から農村に移り,村落は当該社会の基礎的組織として重要な地位を占めるようになった。【イギリスの場合】以下,イギリスを中心に村落の変遷の概要を述べる。
ゲルマン人のうち,イギリスに定住した者を一般にアングロ=サクソン人と呼ぶ。彼らの村落の成立の由来については,大きく言ってゲルマニスト的見解とロマニスト的見解とに分かれるが,ここではこの問題を問わない。アングロ=サクソン人はローマ時代の畑を直接継承しなかったとしても,定住直後の6,7世紀の村落は,ローマ時代ないしはそれ以前から農業が行われていた地域に存在した。なぜなら,農業がすでに行われていた地域は征服者たちに労せずして収穫をもたらしたからであり,同時に,こうした地域は地理的にもまた土壌・肥沃度などの点においても好条件に恵まれていたからである。しかし,初期村落の規模は小さく,周辺には未開墾の土地が広がっていた。こうした未開墾地は11世紀中ごろまでにだいたい開墾され,ドゥームズデー=ブックの時代には18世紀末とほぼ同数の村落がイングランド全土にわたって,同じ村落名をもって同じ場所に存在していた。12,13世紀にも開墾が行われ,いくつかの村落が新しくつくられたが,古くからの村落のように立地条件に恵まれていないものが多く,14,15世紀の人口減少期に消滅したものが少なくない。
村落の構造・機能が史料的に検証できるようになるのは,12,13世紀以降のことである。典型的村落の最も明白な特徴は形態的なもので,一群の農家が泉・池など,一つの自然的な中心を核としてその周囲に集住する有核村落の形態をとっていた。村教会は村落のなかに,あるいは村落と隣接して存在する。村落の耕地は共同地制(開放耕地制)によって運営され,そこでは三圃制(時には二圃制)が行われていた。第二の特徴は国制上,あるいは土地保有上のもので,典型的村落は同時に一つの荘園として,一人の封建領主の統治下にあった。第三の特徴は社会的ないし行政上のもので,住民は一つの村落共同体を構成していた。また,このような典型的村落とは対照的形態の村落,つまり散居村落とか孤立農圃と呼ばれる村落があった。それは定住地の地理上の住置に由来し,それに相応する農業経営が行われていた。つまり有核村落は共同耕地制による穀作農業に適合的で,イングランド南部および中部の平野地域に一般的に存在した。他方,散居村落は高地地方や渓谷地方など広い耕地をもつことのできない地域に存在し,牧畜農業などを主要な生業とした。
【12,13世紀の村落】12,13世紀の新開墾地にできた村落も概して小規模であったが,それらのすべてが牧畜農業に依存していたのではない。有核村落での人口増加と耕地拡大の必要から,“娘”村として成立した村落も少なくない。母村である有核村落の住民の一部は,開墾によって新しく村落領域となった土地に移住した。13世紀の大規模荘園はだいたいこのような分村(史料にはベリックと記載されることが多い)をもっていた。分村の多くはやがて母村から分離・独立したが,独立せずに一つの荘園あるいは村落の飛地として後世まで残ったものもある。独立した娘村は地名から母村との関係を推定できる場合(たとえば Ashby magna, Ashby Parua など)も少なくないが,実際には,地名によって示唆されるよりはるかに多くの娘村が古い村落から独立した。また,13世紀の史料に散見する複合荘園(いくつかの村落を包摂する荘園)は,その核となる古い村落とそこから分岐したいくつかの小規模な衛星村落とから成るものが多い。娘村・小規模衛星村落の成立は12〜13世紀の村落の形態的特徴の一つである。ところが,一村落がいくつかの荘園を包摂する村落,つまり複数の領主が存在する村落もあった。この一村多領主型村落は東部地方に多く,そこでは経済上の単位,また社会的組織の単位は村落であった。このような村落では一村一領主型あるいは多村一領主型村落のように,村落共同体が封建領主によって管理されることなく,村落共同体が十分な機能を果していた。
村落共同体は集会・法廷を開き,村落の農業経営上の規則を決議し,土地保有権・相続権,さらに未成年者・老齢者など生活困窮者に対する相互扶助などの地方的慣習の履行を監視し,地域の平和と秩序維持の任に当たった。実際の集会は,荘園法廷の公式開廷時に荘園法廷の審議とともに行われ,荘園役人によって主宰されることが多かった。その場合にも裁決は荘園役人と村落単位に選出された陪審の評決に依拠した。陪審は富農・貧農の区別なく,村民によって信頼されている共同体員から選出され,荘園法廷で任命された。陪審の評決は荘園法廷に報告され,記録された。陪審のなかには当該荘園領主の保有農ではないが,明らかに当該村落に居住する者の氏名が見られる。国王の審問調査は村落に賦課され,その職務は陪審に委ねられた。その第一は国王課税,とくに13世紀から始まる動産課税および1370年代の人頭税の査定であった。陪審の職務の第二は治安維持に関するものであった。地域の治安維持のため,村落住民の集団責任を問うフランクプレッヂ査察制が行われていたが,その査察の責任は荘園役人とともに陪審に課せられた。査察の対象が荘園領主の保有農のみでなく,村落住民全体であったことは言うまでもない。陪審は上記のような公的義務のほかにも村落共同体の利害に関するさまざまな職務を履行した。たとえば,開墾・共同地用益権に関して共同体内の利害の抵触を調停し,隣接するほかの共同体との利害の対立を調整した。村落共同体は荘園法廷の承認なしにも集団行動をとり,時にはその反対を押しきって荘園領主の旧来の慣習の履行を迫った。このような集団行動は13世紀には極めて普通のこととなった。とくに,領主が貨幣地代給付農に賦役を要求したとき,農民は国王裁判所の領主を告訴した。一方,領主は農民の共同謀議を告発しているが,それは村教会の司祭や書記などが村落共同体を基盤として組織した場合が多い。村落共同体はこうした集団行動を遂行するための共同基金ともいうべきものをもっていたと推定される。しかし,封建領主権が強力に機能していた時期,村落共同体の活動についてはよくわからない。
【産業革命期に向けて】15,16世紀については,村法といわれる村落共同体規制を記載する史料が多数残存する。領主権の衰退により,遮蔽されていた共同体組織が前面に表れたためであろう。
16世紀の牧羊のための「“囲い込み”」は一部の村落を廃村に追い込んだといわれている。しかし,最近,歴史学や考古学に航空写真が利用されるようになり,その結果,この時期の廃村は12,13世紀の開墾村に多く,この時期以前に衰退が始まっていたことが主張されるようになった。一般的に言って,この時期著しく縮小された村落や,いったん縮小されながらも新産業の導入などにより活気を取りもどした村落などがあるが,中世村落は数的にも場所的にも大きな変化を被ることなく近世村落に移行し,産業革命の前夜に至るのである。このあいだ,農具・施肥などの技術の改良,かぶら・大青・タバコ・大麻・亜麻など栽培種目の拡大,都市人口の増大に伴う近郊農村の食肉業の増大など,農業経営の内容は大きく変化した。村民の大部分は中世の慣習保有農ではなく,自由保有農や騰本保有農であって,安定した土地保有権をもつ農民となっていた。村落の管理・運営面についていえば,ばら戦争に続く修道院解散により聖俗の封建領主層は姿を消し,新興のジェントリ層が地主として村落を支配した。彼らは,絶対王政の官機利構の整備につれ,治安判事としてしだいに重要な地位を占め,中央の政策を地方に浸透させるなど中央集権化の推進に大きく貢献した。しかし,彼らは中央から派遣された官僚と違い在地性が強く,課税評価に際して,あるいは中央諸法廷の陪審,庶民院議員として地方の利害を代表した。中世の村落教会は,この時期には教区教会(parish church)として絶対王政の管理体制の一端を担うようになり,村落共同体の拠点という性格は薄れた。従来の村落共同体の自治機能は新しい競争の時代に入って大きく崩れた。産業革命に伴って推進された「“第二次囲い込み”」により,農村人口の多くは工業中心地となった新興都市に移動し,イギリスは農業国家から工業国家に移行した。その結果,地方の村落は大きな変貌をとげた。とはいえ,今日もなお14,15世紀の村落の家並みをそのまま伝える村落も少なくない。
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