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●孫文 そんぶん

アジア 中華人民共和国 AD1866 清

1866〜1925 近代中国のブルジョワ民主主義革命の推進者、政治家。字は徳明。号は逸仙・中山。中山樵・高野長雄の日本名をも使用。広東省香山県(現中山県)生まれ。1878年兄孫眉を頼ってハワイに渡り教育を受ける。一時帰郷し、1883年以降香港で医学などを学ぶ。1894年李鴻章に上書して政治改革を訴えるが受け入れられず、ハワイで革命組織興中会を結成。1895年香港でも興中会を組織し、広州蜂起を計画するが不発に終わる。日本・アメリカを経て、1896年ロンドンで清国公使館に捕えられたが、香港時代の旧師カントリーなどの助けで釈放され、“Kidnapped in London”をを著し、中国の革命運動家の存在を内外に知らしめた。大英博物館などで学んだ後、1897年来日。横浜で宮崎滔天と会う。以後、犬養毅ら日本人との関係をもつ。彼らの仲介により康有為・梁啓超らと合作をめざすが挫折。1900年恵州蜂起、失敗。1905年華興会光復会と合同して中国同盟会を結成し、総理となる。機関紙『民報』で三民主義を提唱。1906年の萍瀏醴蜂起以後数次の武装蜂起に失敗。1911年黄花岡蜂起にも失敗後、武昌で辛亥革命勃発。アメリカで革命宣伝活動中であったが、イギリス・フランスなどで引き続き活動後帰国。1912年南京で中華民国臨時大総統に就任。北方の袁世凱政権と交渉の結果譲位。革命により三民主義のうちの民族主義・民権主義は達成されたとし、地権の平均、鉄道の国有などを内容とする民主主義実現に力を注いだ。1913年宋教仁が暗殺されたことにより第二革命を発動。1914年東京で中華革命党を結成し反袁闘争を指揮。1915年宋慶齢と結婚。同年袁の帝制復活に反対して雲南で挙兵した護国軍の第三革命に呼応。1919年中国国民党結成。陳烱明等軍閥と戦う一方コミンテルン・ソヴィエトと接近し、中国共産党員を国民党に入党させ、また、革命を主体としての労働者・農民に注目し国民党改組により国共合作を進め、1924年中国国民党第1回全国代表大会を開催し、いわゆる「連ソ・容共・扶助労農」の政策を確立。1925年北京で病没。

 青少年期にハワイなどのミョションスクールで欧米流の教育を受け、1885年の清仏戦争後から政治問題に関心を抱くようになる。ただし当初から明確に革命を志向したのではない。李鴻章への上書は、人材養成・農業・工鉱業の振興による改革を提議したもので、改良主義的性格をもっており、興中会の結成とその組織に拠っておこした武装蜂起により、初めて清朝を倒すという考え方と行動の一致をみた。さらに、一応の革命理論としての三民主義の原型は、清国公使館監禁事件後のロンドン滞在時に着想されたが、明確に提起されたのは中国同盟会の綱領としてであった。同盟会結成後、革命は外国の介入を招くとし立憲君主制を主張する改良派の言論に反対し、土地問題に関し、地価の上昇分に課税することなどを内容とする地権の平均を唱えた。第二革命、第三革命を戦い、袁の死後軍閥が各地に割拠する状態になったが、1917年のロシア革命、1919年の五四運動に刺激を受けた後、帝国主義に対してこれ以前に見せることの多くなかった非妥協的態度をとり始めた。国民党一全大会でのソ連と提唱し共産(党)主義を受け入れ労働者・農民を援助するという方針は、そのような転換の総決算であり、土地問題に関しても、「耕者有其田」(土地を耕す者=農民がその土地をもつ)に発展し、三民主義は本質的変化をみせた。また、革命の実践経験に基づき、本質的革命理解の必要性を訴える(「知難行易」説)とともに、国家建説のプランとして「建国大綱」・「五権憲法」を発表した。存命中理想とする政治をついに実現することはできなかったが、革命の実践による理論の構築と理論に基づく再実践、さらにその実践経験による理論の再構築を終生続け、反帝国主義・反封建主義のために戦い、中国革命の象徴的在在となった。

〔参考文献〕鈴江言一『孫文伝』1950、岩波書店

野沢豊『孫文と中国革命』岩波新書、1966、岩波書店

横山英・中山義弘『孫文』センチュリーブックス、1969、清水書院

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