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●尊王攘夷 そんのうじょうい

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 尊王論は江戸初期から始まり,幕末には攘夷運動と合体して尊王攘夷運動となり,討幕運動に発展して,維新変革を成功させた。日本の近代民族国家を創設することを目的とした維新変革は,富国強兵と西欧文明の近代技術を輸入消化することを手段としながら,変革のイデオロギーは尊王攘夷であった。後進地域であるアジアの一国としての日本が,西欧先進国との国際的競合に打ち勝つためには,日本の主体性の主張が先決問題であった。尊王攘夷は日本の民族主義の主張であり,西欧近代国家のナショナリズムと性格は同じである。ナショナリズムは合理的・理性的であるよりは,非合理的で感情的である。

【尊王】戦国時代末期から江戸時代初期にかけて日本に渡来したイスパニア・ポルトガル・オランダ・イギリスなどの西欧諸国は,重商主義国としてアジアの植民地化を企て,キリシタン布教により宗教的進出をも目的としていた。1637〜1638年(寛永14〜15)の島原の乱と1633〜1639年(寛永10〜16)の数次の鎖国令は,近世の日本が西欧の脅威に民族としては初めての危機を痛感した象徴的史実である。1657年(明暦3)に始まる徳川光圀の『大日本史』編さんは,江戸時代初期の国際的危機に,日本の国体の尊厳を古代的・大和神話的権威の象徴である天皇尊崇を歴史研究によって確かめるための事業であった。江戸小石川の彰考館で『大日本史』編さんに従事した館員は,安積澹泊朱舜水朱子学派が15名,栗山潜鋒敬義学派が3名,国学神道の学者が4名,その他となっている。朱子学の大義名分論,敬義派儒者山崎闇斎の垂加神道,その他国学や神道のような既成思想の影響が彰考館でも大きかったが,『大日本史』は,日本の歴史事実を史料的に実証して,天皇を頂点とする家政国家や君臣の階級節度の史実を明らかにすることを目的とした。前期水戸学の尊王は,国民の自覚を高揚させるが,対外的な攘夷思想ではなく鎖国と同様な性格である。1758年(宝暦8)の宝暦事件は,竹内式部が京都の公卿に垂加神道の尊王思想を宣伝して処罰されたが,これも朝幕関係にかかわる国内問題にすぎなかった。徳川斉昭彰考館で,豊田天功藤田東湖会沢正志斎らと『大日本史』編さんを続けた1829〜1860年(文政9〜万延1)のころは,ロシア・イギリス・アメリカなどが日本の近海に出没し,1853年(嘉永6)のペリー来航以来,日本の存亡にかかわる外圧の時代であった。会沢正志斎が1825年(安政8)に世に問うた『新論』は,激越な尊王攘夷思想の宣伝文書で,幕末尊攘運動の志士たちの指針となった。

【攘夷】斉昭時代の後期水戸学は,外圧に対抗する尊攘運動を思想的に指導したように,この時期から尊王攘夷は攘夷運動が中心となる。1858年(安政5),大老井伊直弼が,無勅許で日米修好通商条約に調印し,そののち蘭・露・英・仏とも条約を結んだため,天皇尊崇の尊王論と外国排斥の攘夷論が,幕府を問責するに主力を傾注した。その背景には輸出超過のためにおこった国内物資の不足と物価高騰とがあり,下級武士や豪農・豪商は幕府の責任を問うとともにその政権打倒に与するにいたった。吉田松陰の出た長州藩は尊王攘夷を激化させたが,島津藩や土佐・福井・会津藩などは公武合体論による対外的現実主義政策を主張して,京都で両派は激突を繰り返した。長州激派と薩摩藩等公武合体派が1864年(元治1)に戦った禁門の変で長州が敗北したが,1866年(慶応2)の第二次長州征伐で幕府が失敗し,薩摩の小松帯刀・西郷隆盛と長州の木戸孝允らが薩長同盟に成功したのも同年のことである。1863年(文久3)の長州藩外国船砲撃事件薩英戦争に敗れた薩長は,外圧に対する攘夷の不可能を思い知らされ,尊攘運動を討幕に切り換えた。1867年(明治1)の将軍慶喜の大政奉還は,薩長らの討幕計画の圧力によるものであるが,形式的には尊王論の結論でもあった。明治維新の王政復古や1870年(明治3)の大教宣布の詔は,尊王運動の結末であるが,そののちの文明開化以後には尊攘思想の復古と反省がくりかえされる。