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●ソンガイ帝国 ソンガイていこく

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 ソンライともいう。15〜16世紀,ニジェール川の大湾曲部のガオを中心に栄えた,西アフリカの大帝国。ソンガイの歴史はガーナ帝国と並ぶほど古く,9世紀のアラブ資料は,ソンガイをスーダン最大の王国としている。イスラーム教もこのころには導入されていて,王都のクキア(カウカウともいう)は,ガーナ王国の王都と同じく,ニジェール川を挟んで,東岸の商業区と西岸の王宮とその家臣たちが居住する街区とに分かれていたという。ディア(あるいはザ)と呼ばれる王朝に支配されていたが,1010年ごろ,王はイスラーム教に改宗しソンニを名乗るようになったという。その後ソンガイはマリの属国になったが,18代ソンニ=アリの時代(1464〜1492)に大発展を遂げ,マリ帝国に代わって西アフリカの最強国となった。

【ソンガイの発展】マリ帝国時代,サハラ交易の中心ルートは,モロッコに達する西ルートからガオの位置するニジェール川大湾曲部のジェンネやトンブクツを拠点に,サハラ中央部を横切り,ツアやワルグラを経て,チュニスやトリポリに達するルートに比重が移っていた。このルートの繁栄によって力を得たソンガイは,さらにマリの支配下にあったトンブクツ・ジェンネを攻略し,西はモプチ,東はハウサ地方のカノに至るまでの地域の支配圏を確立した。ソンニ=アリはイスラームに帰依していたが,この過程でトンブクツに拠っていた多数のイスラーム学者の虐殺などを行い,暴君として高名を馳せるに至った。

アスキヤ大王の治政】ソンガイの最盛期は,次代のアスキヤ大王(1493〜1528)の時代である。アスキヤ大王の前身はモハメッド=トゥレといい,ソンニ=アリのソニンケ族出身の家臣であったが,ソンニ=アリが亡くなるとその息子を追放してアスキア王朝をうちたてるに至った。簒奪者として王位についたアスキヤ大王は,1495年,100人の歩兵と50人の騎兵をひきつれて,マリのマンサ=ムーサ王のそれに劣らない豪華なメッカ巡礼を行い,エジプト人のアバシッド朝のカリフから,全西アフリカのイスラーム教徒の責任者(エミール)に任ぜられて帰国した。サハラ以南の黒人王国の王が王位の権威づけのためにメッカ巡礼を行うという例はこれまで何度も見られたが,王位の正統性そのものをイスラーム教から得たという例はこの地域の歴史でこれが初めてである。また北アフリカのイスラーム学者アル=マギリから治政の周到な指導を仰ぐとともに,ソンニ=アリによって追放されたイスラーム学者を呼び返すなどして,イスラーム教の振興に尽力した。トンブクウはこの時代数万の人口(一説には5万)を抱える学術都市に成長し,北アフリカからの留学生もあったという。この時代領土の拡大もさらに進み,ソンガイ帝国は,西はセネガル川の中流域から東はボルノー地方に達する地域,南は西方のセグ,東方のモシ王国を包み,北はサハラ砂漠の中央部にまで達する大帝国となった。同時に国家制度のかつてない整備もみた。その一つは,帝国の諸州への分割統治で,地方の統治は地方政府に委ねられた。第二に貢納制度,第三に奴隷や捕虜出身から構成した専門的な軍事組織の導入が試みられた。水上交通の整備も行い,ニジェール川には専門の船隊が組織され,軍事・警察と徴税の業に当たったという。経済的には,金輸出を中心(この時代の生産地はビトゥ)とするサハラ貿易の掌握は相変わらず重要な経済基盤であったが,さらにより積極的な経済開発も行われた。サハラの塩産地テガザの開発・度量衡の統一・北アフリカからの入植者による農業開発が知られているが,アフリカ稲の原産地として知られるニジェール川流域の水田開発はとくに注目に値する。

【ソンガイ帝国の崩壊】強大さを誇ったソンガイ帝国も,1592年,サハラ砂漠を越えて侵入してきたモロッコ軍の火縄銃隊の前にあっけなく崩れ落ちる。モロッコ軍の大半は,キリスト教徒の再征服にあって,イベリア半島を追われたイスラーム教徒たちであったという。

〔参考文献〕山口昌男「黒い大陸の栄光と悲惨」『世界の歴史』6,1977,講談社

シューレ・カナール(野沢協訳)『黒アフリカ史』1964,理論社

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