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●祖霊信仰 それいしんこう

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 遠近の両祖霊を信仰し祭ることをいう。祖先祭祀が近き死者霊を祭ることにやや力点があるのに対し,遠き祖先,とくに氏族の系譜上の始祖神を祭ることに力点がある。氏族が氏族結集のために祭祀している氏神を始祖神としている場合が多い。伊勢に祭られている天皇家の天照大神,奈良の春日神社に祭られている中臣氏の天児屋根命,太玉神社に祭られている忌部氏の天太玉命などがそれである。このように氏神は氏の始祖神であるという考え方は大陸や半島の影響を受けて,早くて聖徳太子,遅くて大化改新のころに形をもって現れてくる。これは『常陸国風土記』の筑波郡に記載されている,駿河国の富士山と常陸国の筑波山へ新嘗の夜に訪れた神祖の尊の話によってわかる。富士は新嘗の夜のためといって神祖の尊を泊めることを断り,筑波山は〈今夜は新粟嘗すれども,敢へて尊旨に奉らずばあらじ〉といって祭祀したという。神祖の尊は新嘗の夜に女性の司祭者によって祭られる神ではなかった。新嘗の夜に祭られる神は田の神的性格をもつ神であった。ただ神祖の尊を受け入れた筑波には帰化系の人々が多数住んでいた。これらの人々が祖霊信仰をもっていたのであった。日本ではもとは祖霊ではなく,田の神的性格をもつ神を祭っていた。およそ氏神のことばには死者霊の響きはない。むしろ“死”を嫌う神である。もともと氏神というものは太陽(旭日)・雷・風など威力ある自然現象を神格化したものである。それが中国の儒学の伝来により宗廟の考え方を受け入れて,氏神は祖霊と考えるようになった。このことは『万葉集』の4096に陸奥国から黄金が発見されたということに対しての大伴宿禰家持の長歌およびその反歌に,大伴氏・佐伯氏の祖,大来目主以来の功業をうたい,そして始祖霊の信仰を〈大伴の遠つ神祖の奥津城はしるく標め立て人の知るべく〉とうたいあげているのに見ることができる。『常陸国風土記』と同じ“神祖”を書きながら,この方は奥津城,つまり墳墓の祭祀をさしているのに相違点をみる。このような祖霊信仰の続いて高まるときが平安時代の初期である。『新撰姓氏録』(815年成立)が編纂されるころになると,大化改新を中心とする時期には大豪族のなかで祖霊信仰が興ったが,中小貴族に祖霊信仰が高まりをみせたのである。このような自然神の系譜をひく始祖霊(氏神)は,当初,これも伝統どおり女性によって祭祀された。天照大神は祭祀される神であるとともに,神を祭る最高の巫女であった。先の大伴氏の場合も,(379)に大伴坂上郎女が,733年(天平5)冬11月に大伴の氏の神に供え祭る歌として〈斎部の忌ひ穿り居ゑ〉て,自らが司祭者となっていることが,このことを示している。ともかく,諸氏族は2月・4月・11月の氏神の祭りには故郷へ帰ることが許された。やがて,新たに分立した氏人も氏神をもつようになった。橘氏の梅宮・平氏の平野社・そして清和源氏の八幡社である。平氏の場合は高望王系の桓武平氏が武士団の棟梁として勢威をもつようになると,平清盛に至って佐伯氏の氏神である厳島を崇敬しその氏神化をはかったが失敗した。このあと日吉社の氏神化もはかる。源頼朝は鎌倉の鶴岡に若宮を創始した。鎌倉の武士団の庶氏家もそれぞれ氏神を勧請しその祭祀権を掌握し統一をはかった。これがそのような例である。一方,源平争乱・南北朝の内乱などによって滅亡したり経済力を喪失したりした氏族の氏神は土豪や村人の管理するところとなり,宮座が発生し,地縁神としての産土神と理解されるに至った。氏神が始祖神であるという考えは一方では人を神に祭る風習を生み出した。菅原道真を祭る北野天満宮豊臣秀吉を祭る豊国大明神・徳川家康を祭る東照権現・さらには乃木神社などがその例である。ともかく,江戸時代には儒学の浸透により,祖霊信仰は盆や彼岸などの仏教の年忌供養や正月などの民俗宗教の方へ移っていった。

〔参考文献〕阿部武彦「上代氏族の祖先観について」史学雑誌56―4,1945

田中久夫「祖霊と稲作」歴史公論69,1981,雄山閣

肥後和男『神話伝承と古代文化』1955,弘文堂

田中久夫「祖先祭祀と儒学」神戸女子大学紀要 17―1,1984

田中久夫「平氏の氏神について」史泉26,1963,関西大学史学会

柳田国男「人を神に祀る風習」『定本柳田國男集10巻』1962,筑摩書房