●租・庸・調・雑徭 そ・よう・ちょう・ぞうよう
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古代税制の根幹を成したもの。【租】国家の総有下に収公された田地に対する税で,田租とも呼ばれた。反別2束2把の租稲(当時の反当収穫の約3%)を納めた一般人民の口分田をはじめとして,位田・国造田・郡司職田・采女田,それに私有を許された墾田などは輸租田と総称された。706年(慶雲3)に1束5把に改められたが,これは斗量規準の改訂で,租率3%に変動はなかった。神田・寺田や官衙の用途のための公廨田(くがいでん)など,不輸租田とされた田地では徴収した田租をそれぞれの社寺官衙に給付し,無主位田・闕郡司職田・闕国造田や公剰田(班給後に剰った田地)など,田租を徴課しえない田地は賃租(ちんそ)という小作経営に付して地子(ちし)を徴収したので不輸租の地子田と呼ばれた。田租は国衙の正倉に収められて正税稲と呼ばれ,地方行政の財源に充当された。
【庸】庸は調とともに男子の人頭税として徴せられ,都に運ばれて国家財政に充当される最も基本的な税となり,調・庸をあわせて課または課役と称し,これを負担する班田農民を「調庸之民」と呼んだ。庸は本来「歳役」といい,都で労役(1年で10日の割合)に服するもので,都に近い畿内の百姓は歳役に服して庸の貢上を免ぜられるのが普通であった。庸は布2丈6尺で納める定めであるが,綿・米・塩など郷土の所産に応じて納めることが認められていた。本来正丁(21〜60歳)に対する労役であったため中男(17〜20歳)には課せられなかったが,次丁(61〜65歳)は調同様に正丁の半分を課せられた。706年(慶雲3)に庸は半分(庸布で1丈3尺)に減じられ,717年(養老1)に1丈4尺,2人で1反(2丈8尺),3人で1端(4丈2尺)と定められた。712年(和銅5)以後,調・庸の銭納が認められ,庸布1丈は銭5文で換算された(正丁の庸銭は7文)。
【調】諸国の産物を納めるもの。調は庸と同様に男子の人頭税で,都に送られ国家財政となる。調・庸を負担するか否かで戸籍上でも課口と不課に区別され,「調庸之民」が班田農民の代名詞となった。具体的には田調の系譜に立ち,郷土の所産に応じ絹・シ※注1※・糸・綿・布で納めるが,調雑物と呼ばれた鉄・鍬・塩・魚介・海藻などでの代納が認められていた。また調副物として紫・紅・茜などの染料や木綿・麻・油・紙・鹿角・砥・簀・薦など種々の手工業生産物が徴せられた。調物はそれぞれその税量が定められており,たとえば,絹は巾2尺2寸,長さ5丈1尺のものを1疋と呼び,これを正丁6人で負担,1人あたり8尺5寸の割合である。次丁は正丁の半分,中男は正丁の4分の1を納める定めであった。調・庸は生産物による物納税であるが,その生産には農閑期を中心に家族全員の労働力を傾注しなければならなかったことから,律令制の奴隷制的本質を象徴するという説が一般的である。
【雑徭】1年に60日を限度として課せられた労役。雑徭は国司が徴発編成し,治水灌漑工事,道路・堤防・橋梁などの修築,官衙・寺塔の造営,公使上下に伴う駅・伝馬や官船の逓送など,地方行政部門におけるさまざまな労役にふり向けられ,〈調庸の外,国中の諸事は大小を論ぜず,総て雑徭と為〉とされた。正丁は60日,次丁30日,中男15日を限度としたが,757年(天平宝字1),橘奈良麻呂の変の直後,〈国郡司ら法意を存せず必ず役使を満す。平民の苦略これに由る〉として雑徭半減の格が発布された。〈六十日を過ぐることを得ざれ〉とする定めを拡大解釈しつねに限度まで使役して,民衆を苦しめていた様子が察せられる。しかし,いつしか旧に復していたらしく,796年(延暦14)に再び雑徭30日令が出ている。また,国司が公用と偽って私墾田の開発に雑徭を充当するなど権限を乱用して私役にあてることも少なくなかったという。雑徭は農閑期における民衆の労働力を最大限に収奪するものとして,班田農民の没落を促し,律令体制そのものの基盤を掘り崩す要因となっていた。
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