●祖先祭祀 そせんさいし
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死者の霊を祭ること。日本人はもともと遺体も死者の霊魂も祭祀する風習がなかった。死者の墳墓・霊魂を祭る風習は,中国・朝鮮半島と接触,儒学の流入とともに始まった。その具体的な姿は蘇我蝦夷が642年(皇極1)に葛城の高宮に祖廟を建てたところにみる。しかし,蘇我氏が645年の大化のクーデタによって政治への影響力を喪失したために,宗廟を祭るという祖先祭祀の風習の成立への動きは奈良時代の半ば,藤原仲麻呂の出現を待たなければならない。最も,606年(推古14)には仏説阿弥陀経にもとづく盂蘭盆会が初めて行われ,続いて657年(斉明3)にも行われたが,この盂蘭盆会は餓鬼道に苦しむ死者の救済を説くもので,直接には祖先祭祀と結びつかなかった。奈良時代のことを書いた仏教説話集の『日本霊異記』にも祖先が訪れてくるのは7月7日・5月5日・正月1日の三回であるといって,盂蘭盆会の7月15日を除いている。しかし,1052年(永承7)の末法が近づき地獄を意識し始めるころになって,浄土教とともに人々から信じられるようになった。そして,この日が祖父母・父母などの餓鬼道に苦しむ死者への抜苦の日と理解するにいたった。死者への追善供養が始まるのである。これに対し,儒学の孝の考えにもとづく,死者の墳墓への祭祀は691年(持統5)の陵戸の設置の詔に始まる。以後,天皇・皇后・有功の臣などの墳墓の地の整備が行われる。そして,721年(養老5)には元明天皇の,〈喪処に常葉の樹を植えて刻字の碑を建てよ〉という遺詔が出された。『日本霊異記』に小子部栖軽の墳墓の上に刻字の碑が建てられたことが書かれている。しかし,このことはあまり行われなかったらしい。山陵の祭祀も同じことである。藤原仲麻呂から始まった荷前使の派遣も十陵四墓と定められ,時代がたつにつれ古いものを捨て新しいものを祭っていくというものであった。臨時に行われる山陵の祭祀も山陵が干ばつなどの祟りを示したときに限られる。839年(承和6)の神功皇后陵の陵木伐採に対する山陵使派遣がその代表的な事例である。しかし,異文化と接触するにつれ,河川敷や海浜などに遺体を遺棄することは異常と考えるようになり,墳墓の地の保護整備を行うようになった。そして,京都では都内に住む人たちの墳墓の地を域外へ強制的に移動した。淳和天皇が散骨の詔を出したときに,藤原吉野が山陵は宗廟のようなものであるといって散骨に反対するまでにいたった。祖先祭祀は儒学によって推進された。しかし,祖先祭祀の風習の成立には決定的な役割を果たし得なかった。仏教者側の働きかけ,つまり釈迦如来への舎利信仰が加わって初めて墳墓祭祀のことが軌道に乗った。その早い事例が比叡山の良源(912〜985)の遺告にある。弟子たちに良源を祭るために石の卒都婆を建立せよというものである。同じ時期,市聖といわれた空也(903〜972)も散乱する遺骸を集めては荼毘にふし阿弥陀如来の名をとどめたという。1052年(永承7)から末法が始まるという思想が浸透するにつれ,阿弥陀聖が活躍し浄土教が広まった。そして阿弥陀聖が葬送に積極的に関与し,死者を西方極楽浄土に送った。念仏をせよ,作善をせよ,死者のために追善供養をせよと,だんだん死者供養のことを言い,12世紀になると墳墓祭祀のことまで言うようになった。貴族たちは埋葬した上に阿弥陀堂を建立した。平泉中尊寺の金色堂が有名な例である。経済上の問題もあって阿弥陀堂の代わりに石製・木製の五輪塔などの卒都婆を建ててそれに代えた。しかし,これらはどこまでも死者の極楽往生を願っての作善の一種であった。その管理は阿弥陀聖(三昧聖)や寺院に任された。したがって,一周忌を過ぎればいぜんとして死者の身内の者はあまり墳墓の地に関心をもつことはなかった。しかし,ようやく室町時代になって,盂蘭盆会の側面から墳墓祭祀のことが定着し始めた。現在のお盆の墓詣の風習の成立である。それが江戸時代の墳家制度の成立とともに浸透していった。一方,儒学の祖先祭祀の風は江戸時代の朱子学を封建教学とするに及び,ようやく正月などを祖先を祭る日とする風習が定着し始めるのである。したがって,日本における祖先祭祀の風習は仏教と儒学の両者がうまくかみあった江戸時代をさかいに,民俗として成立し始め,明治政府の儒学による国民教育が行われるようになって,祖先祭祀のことが成立するのである。〔参考文献〕柳田國男「先祖の話」『定本柳田國男集第10巻』1967,筑摩書房
田中久夫『祖先祭祀の研究』1978
田中久夫「祖霊と稲作」『歴史公論』1981,雄山閣
田中久夫『祖先祭祀と儒学』神戸女子大学紀要 17 1,1984