●蘇我馬子 そがのうまこ
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?〜626? 6世紀後半の敏達朝から7世紀前半の推古朝にわたる間の大和朝廷の実力者。父である蘇我稲目(そがのいなめ)の死後,敏達即位の際大臣(おおおみ)となり,以後薨じるまでその地位にあった。敏達・用明朝においては穴穂部皇子(あなほべのみこ)・物部守屋(もののべのもりや)と対立しついには両者を殺害した。この間の抗争は崇仏・排仏を契機とするごとくであるが,実際は皇位継承をめぐる政権争いの様相が濃い。競合する相手を倒した馬子は次には崇峻天皇をも殺害し実権を握るに至った。推古朝における冠位制の実施・遣隋使の派遣・国史の編纂等の新たな政策は,摂政聖徳太子とともに馬子の関与も大きかったであろう。馬子の「薨伝(推古紀)」には〈性,武略有りて亦弁才有り。以て三宝を恭敬す…〉とあるように,仏教の導入に努め,飛鳥の地に法興寺を建立した。また朝鮮諸国との外交面でも馬子の果たした役割は無視できない。なお飛鳥の石舞台古墳は馬子の墓と伝えられている。