●蘇我氏 そがし
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大和盆地の高市郡の宗我川流域より起こった豪族で,「蘇我」の名は,〈眞菅よし宗我の河原に〉『万葉集』とあるように,菅を語源とすると考えられる。だが,『三代実録』(元慶元年条)には,石川朝臣木村は,〈始祖大臣武内宿祢ノ男,宗我ノ石川,河内国石川ノ別業ニ生ル。故レ石川ヲ以ッテ名トス。宗我ノ大家ヲ賜リ居トナス。因リテ宗我宿祢ヲ賜姓サル〉とあり,河内国石川を本拠とする家伝を述べている。だが,これは大化改新後,蝦夷の弟,倉麻呂ノ子連子の系統が石川朝臣となって,蘇我氏の家系が長くたもたれたことと関係があり,石川朝臣が傍系より本系となるための所伝ではないかと思う。蘇我氏は,所伝によれば武内宿祢の子孫と称し,近隣の葛城・平群(ヘぐり)・巨勢(こせ)・波多・紀の諸氏と同族という。だが,葛城・平群・巨勢などの氏族に比して,蘇我氏が中央政局で活躍するのは遅れている。『古語拾遺』によれば,雄略朝に,蘇我満智が三蔵を管掌したとあり,大和政権の財務を司る官僚となったと記されている。おそらく蘇我氏の本拠地の周辺部に分布していた渡来人の集団をその傘下に収め,その力を基礎とし政局に進出したものと考えられる。特に漢氏(あやし)と深い関係にあったことは有名である。6世紀の初め,欽明天皇の時代になると蘇我稲目は大臣に任ぜられた。当時,大連として権力をふるった大伴金村が継体天皇の皇子,安閑・宣化天皇を擁立したのに対し,嫡流である欽明大里側として努力した蘇我氏の功績が報いられたものと考えられる。馬子は,姉妹の堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇の妃として姻戚関係を結び,勢力を朝廷内に扶植した。当時,蘇我馬子に対抗しうる豪族は物部大連尾輿(おこし)であったが,物部氏は部民制の上に立脚した保守派の代表であった。一方蘇我氏を支えるものが飛鳥地方の渡来系氏族であっただけに,積極的に大陸文化の摂取につとめ,百済とは伝統的に友好関係を保ち続けていた。物部氏とはしだいに政治的な対立をきたし,崇仏・排仏問題を契機にいっそう深刻なものとなった。587年には稲目の子,馬子は物部守屋を滅ぼして大和政権の実権をにぎることとなった。蘇我氏は官司制的な組織を整え,新しい行政を志向していった。吉備地方の屯倉(みやけ)経営に見られるように,中央派遣の官吏による田部の監督・編戸や徴税など,大化以後の班田収授制の先駆的な実験なども試みている。おそらく蘇我氏の領導する中央集権国家を目指したものであろう。聖徳太子も執政時代は摂政として蘇我氏と協力し,極力対立を避けていたが,604年(推古12)ごろより冠位十二階制,憲法十七条の発布など新政策をうち出し,蘇我氏の百済救援のための新羅出兵を中止させ隋に使いを派遣するという平和外交路線をうち出してきた。この遣隋使と共に遣わされた留学生,ソウミン※注1※・南渕請安(みなぶちのしょうあん)・高向玄理(たかむこのくろまろ)などが大化の改新のブレーンとして活躍したことは注目されてよい。だが,太子が死ぬと蘇我氏の専制化は進み,崇峻天皇の暗殺,山背大兄皇子を攻め殺すなど,天皇家との対立も顕在化してきた。また馬子の嫡流の蝦夷・入鹿が大臣を独占するなど蘇我氏一門の内部抗争が一段と激しさを増し,境部摩理勢(さかいべのまりせ)や蘇我倉山田石川麻呂などを反対側に追いやる結果となり,遂に入鹿は,中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターの前に倒された。蘇我家は,大化以後,傍流の石川朝臣が保ち,後世に伝えることとなる。〔参考文献〕岸俊男『日本古代政治史研究』1966,塙書房
門脇禎二『飛鳥その古代史と風土』1970,日本放送出版協会
田村円澄『飛鳥仏教史研究』1969,塙書房
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