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●惣領制 そうりょうせい

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 中世(おもに前期)に,武士(在地領主)層において認められる,惣領−庶子の同族関係を基礎にして形成された社会結合をいう。平安時代後期以降,荒廃田・未墾地の開発を行い,開発私領をつくり上げてきた在地領主層は,その所領を男女子孫に分割譲与するのが通例であった。その際,嫡子には所領の大半を,庶子には少額を譲る場合が多く,嫡子の優位性が認められる。所領を譲り受けた嫡子(惣領)・庶子はまったく単独では知行することなく,一族相寄って知行していた。平安後期の武士の一族結合はまだゆるやかなものであり,惣領は一族全体のリーダーではあるが,統制力をもつというほどのものではなかった。これが,鎌倉幕府成立以降となると大きく変わってくる。在地領主層は自ら築き上げてきた所領支配を幕府から地頭職として保障されるとともに,幕府に対しては奉公(京都大番役鎌倉番役,そのほかの御家人役)を勤めることになった。在地領主(武士)の一族において,幕府に対する関係を代表するのは嫡子(惣領)である。幕府側からいえば,惣領を媒介にして御家人役をかけるわけである。惣領は御家人役(公事)を一族全体に(女子分にも)配分するわけであるが,その際一族各々の所領の大きさ(公田の額)に応じて配分する。惣領は幕府に対する奉公(御家人役)を一族全体で果たすために,一族成員の所領をも管視しなければならなくなる。もし一族のなかで誰かが所領を失ったり収益を減らせば,その分の公事(御家人役)は一族のほかの人が余計に負担しなければならない。鎌倉時代の中期は,在地領主は一族が荘園・公領内の村落にそれぞれ分立しながら協力共同して所領知行をしていた。上野国新田氏は,新田荘内の各郷に館を構えて用水路を整え,各郷の農民の農業生産を奨励していた。そして隣り合う一族相互は用水利用の面でも互いに協力している。新田荘一井郷地頭(大館氏)と田嶋郷地頭(岩松氏)は同じ湧水系用水を共同で利用していた(大館氏,岩松氏ともに新田氏一族)。さらに,惣領の所領の中に庶子分の在家田畠がある場合,庶子同士で所領が錯綜する場合も全国的に見られる。このように,一族のなかの各成員は,郷地頭職は所持していても(分割相続)単独で所領知行しているわけでなく,一族結合に加わることによって初めて自己の所領を支配できたのである。惣領は一族中において最大規模の所領をもち,一族の中心地たる所領に館を構えており所領知行の面でも庶子に勝っている。ただ西日本では惣領有位の傾向は少なく,惣−庶関係は平等・共和的にみえる。惣領の一族庶子に対する統制力は対外的な代表者であることによるところが大きい。惣領は御家人役勤仕を一族として全うするため,この時代庶子の所領にも統制を加えていくのである。惣領の庶子に対する統制としては,[1]庶子分を含めた全所領に対する検注・検断を行いうる,[2]全所領に関する本証文は惣領が相伝する,[3]一族の氏神・氏寺での祭祀を主宰する,などがあげられよう。鎌倉時代の関東御家人において典型的にみられる惣領制は,鎌倉末期以降大きく変化していく。庶子のなかで一部は同族関係から独立していき,また一部は没落して惣領家の家臣に転落する。こうした傾向のなかで,地域によっては同族結合からはなれた小領主層が地縁的に結合したり(国人一揆),同族関係を維持したまま再結合したりする(松浦党一揆など)。大勢としては,地域的結合と家臣化の動きになっていく。鎌倉末期からこの傾向が顕著となるのは,[1]農業生産力の発展と小農民の自立,[2]地方市を中心とする交換経済圏の形成,[3]それに伴う銭貨の流通,などのためである。武士が地域的に結集せざるを得ない条件がつくられてきたのである。

〔参考文献〕石母田正『中世的世界の形成』1957,束京大学出版会

松本新八郎『中世社会の研究』1956,東京大学出版会

豊田武『中世の武士団』(豊田武著作集第六巻)1982,吉川弘文館