●曹洞宗 そうとうしゅう
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道元を宗祖に,永平寺(福井県)・総持寺(神奈川県)を大本山とする禅宗。禅はインドのボーディダルマ(菩提達磨)によって6世紀初め中国へ伝えられたが,五祖弘忍の門下で,曹溪山に住んでいた慧能と當陽山に住んでいた神秀によって南宗禅と北宗禅に分かれ,慧能の系統で洞山に住した良介が出てその法を広めたので曹洞宗と称せられ,中国禅宗五家七宗の一つに数えられるようになった。良介の弟子で曹山に住した本寂の師弟の名に基づくとする説もある。本寂の系統はまもなく姿を消したが,同じく良介の弟子道贋の系統に立つ天童山の如浄(1163〜1228)について修行し,その法を日本へもたらしたのが日本曹洞宗の宗祖,道元(1200〜1253)で,希元と号した。道元は曹洞宗の名を用いず,また世間で称せられた仏心宗の名も退け,“只管打坐”の“正伝の仏法”を唱えた。1227年(安貞1),宋より帰朝して直ちに『普勧坐禅儀』を著述したが,事実上これが日本曹洞宗成立の第一声を宣したことになる。その後宇治に興聖寺を建立し,ここに僧堂(坐禅道場)を開いた。しかし,こうした道元の活動は比叡山の反発を招き迫害をこうむった。そこで,波多野義重の協力を得て越前志比庄に永平寺を開き,如浄のことばの如く深山幽谷に居して一箇半箇の説得に乗り出し,曹洞宗の基礎を確立。1253年(建長5)京都で入滅した。主な著述に『学道用心集』・『正法眼蔵 95巻』・『永平大清規』などがある。二世孤雲懐奘は年長であったが道元に心服,よく随順した。『正法眼蔵随聞記』は彼の執筆したものである。三世徹通義介は加賀の大乗寺を開き,大乗寺二世のエイ※注1※山紹瑾は各地を行脚,広く当時の仏教学を学び,阿波の城満寺・能登の総持寺・永光寺(ようこうじ)を聞き,道元禅の命脈を保持しつつ密教的な修法も取り入れて教団の拡大普及をはかった。この時点で,曹洞宗は出家教団から教化教団への転換が行われたと見てよい。このころ,彼の徳望名声は京洛の地に達し,後醍醐天皇の「十種勅問」に対する奉答が叡慮にかない,1312年(元享2)綸旨を賜り,総持寺は本山として認められ,曹洞宗と公称するようになった。また永光寺に五老峰を設け,如浄の語録・道元の遺骨・懐奘の血書・義介の嗣書・紹瑾自筆の写経を石櫃のなかに納め,埋蔵した。ことに日本曹洞宗の基礎が確立されたものとして注目すべきである。著書に『エイ※注1※山清規』・『伝光録』・『坐禅用心記』などがある。1325年(正中2)寂。峨山・明峰をはじめとするその門下の時代にいたり,曹洞宗はほとんど全国に末寺をもつに至った。かくて中世における曹洞宗教団は,永平寺・総持寺・大慈寺(肥後)・正法寺(陸奥)を中心に全国に教線を広げた。臨済宗のごとく貴顕に接し五山文学の開花を見るような華やかさはなかったが,道元禅の純粋性の保持とともに大乗菩薩道の実践,すなわち,一般衆生の済度にあたった。この間,法要も真言宗の影響を受け,声明もまた取り入れられ,“授戒会”などを通じて死者の葬いのみではなく,生者の安心立命にも大きく働きかけた。1603年(慶長8)徳川幕府が成立すると諸法度を制定し,1635年(寛永12)には,寺社奉行が置かれて曹洞宗もその管轄下に入り,全国の寺院は天下大僧録関三刹(下総総寧寺・武蔵龍穏寺・下野大中寺)ならびに東海道大僧録(遠江可睡斎)の支配を受けることになった。江戸時代は黄檗宗渡来の影響もあって宗学大いに振い,大乗寺の月舟宗胡・卍山道白などは,また正しい宗風の興隆に務め,天桂伝導は独自の識見で禅風を挙揚し,鈴木正三・大愚良寛・乞食桃水などもまたそれぞれの立場で禅の真髄を発揮している。明治時代は先ず「廃仏毀釈」「神仏分離」で始まり,欧米物質文明の波にさらされ大きな打撃を受けたが,『修証義』編纂による教化方針の確定・宗制の整備・宗立大学の開設など宗門の近代化も着々と進んだ。太平洋戦争終結後は,欧米への曹洞宗の進出は著しく,移民対象の寺院の外に多くの参禅道場が開設されている。現在,所属寺院数約1万5000カ寺。〔参考文献〕東隆真『わが家の宗教2 曹洞宗』1984,大法輪閣
『日本仏教基礎講座6 禅宗』1979,雄山閣
竹内道雄『曹洞宗教団史』1971,教育新潮社
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