●葬制 そうせい
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死者を葬る儀礼・習俗をいい,広義には死後の祭祀や墓制をも含む。葬制は死者自身が営むのではなく,生者が死者のために営むところに特色がある。わが国では中世以降,仏教が葬儀を積極的に取り上げるにいたり,仏式葬制が一般化して今日に及んでいる。わが国の葬制には土葬・火葬・風葬・水葬があるが,土葬・火葬が全土に広がっているのに対し,風葬・水葬は局限された地域で行われたり不明な点が多い。すなわち風葬は近年では奄美諸島の一部で行われているにすぎず,水葬は棺をフネと称したり,葬地に舟の文字のつく地名の多いことなどから,過去にその存在を指摘する説もあるにすぎない。【土葬と火葬】歴史的には初め土葬が普及していたところへ,仏教の渡来に伴って火葬の方法が移入され,しだいに民間にのびてきたのである。仏教渡来以前のわが国では,縄文文化遺跡に屈葬やカメに納めた葬制が見え,弥生文化期にいたって伸展葬や石棺の使用,副葬品が現れる。古墳文化期には支配階級の巨大墳墓が出現するが,仏教伝来に伴う火葬の方法の移入とともに,古墳文化の厚葬の風習は衰えた。わが国で最初に火葬が行われたのは,文献上では『続日本紀』の文武天皇4年(700)の3月己未(10日)の条に,元興寺の僧道昭の遺体が飛鳥の栗原という所で火葬されたとあるのが,その始まりであるとされている。その2年後には持統女帝が火葬されている。そして8世紀以降,仏教文化とともにわが国の火葬の葬制が広まったとするのが定説である。その後,火葬は歴史的に先行していた土葬と相克しながら,ジグザグに進行することになるが,火葬の受容は,土葬に特徴的な死者・死霊への恐怖を和らげるのに力を貸したことを見落としてはならない。鎌倉時代になると,浄土真宗の開祖の親鸞がやかましく火葬をいったため,その門徒は鎌倉・室町時代以来ほとんど火葬である。浄土真宗の場合は原始仏教と同様に霊魂を否定するので,火葬で灰にしてしまうことによって,空(くう)を知らなければならないということも含まれていたと考えられる。浄土真宗以外の鎌倉新仏教では自派の教線拡大のために,土着的な民間の葬制との融和や妥協が必要であったため,農民たちが火葬を嫌って土葬に固執する傾向に対して,教義上火葬を絶対条件とはしなかった。他面,京都などの都市では,仏教信仰という宗教的要素と,死体放棄に対する行政的要素の両面を混在させながら,火葬がしだいに庶民に受容されていった。江戸時代に入ると,神道・儒教の信奉者や儒学者・国学者たちの間では,火葬は残酷な異国の習俗とする火葬反対論が広がり,将軍や大名の多くは土葬の葬制に従うようになった。ただ天皇家だけは奈良時代以来一貫して火葬であったが,幕末の孝明天皇にいたって変わっている。これは幕末にわきおこった神道・儒教の思想の反映と考えられる。こうした土葬か火葬かという問題は,庶民の問題より知識階級の問題であった感が深く,江戸時代には都市部で火葬が庶民の間にかなり普及していった。江戸時代の火葬・土葬の場合,地借・店借の人たちは,家主の許可を得て,死体を檀那寺へ担ぎ込み,寺の一隅にある湯灌場(ゆかんば)で湯灌の後,火葬の場合は寺の切手をもらって火葬場へ赴いた。ともあれ,焼くこと・骨拾い・納骨という手続きをとる火葬は,宗教的には浄土真宗の強い地帯に,都市と農村では都市部に集中して分布し,近年は火葬が拡大・普及しつつある。歴史的にみて,わが国で火葬率がしだいに上昇してくる基盤には,火葬の手続きが遺族などの目に見るにしのびないにもかかわらず,肉と骨の分離が早いこと,骨を拾って後に特定期間を遺族と過こすことができること,火葬によって死の汚穢感が薄らぐこと,分骨が容易なこと,墓地が狭小ですむこと,法律的に土葬の不適地とされる地域の拡大などの諸点をあげることができよう。とくに火葬の特徴の一つである分骨の容易さは,今日でも遺骨の一部なり歯なりをその宗派の本山に納めることが広く行われている。土葬ならば,通常,死の翌日あるいは翌々日に遺体を土中に埋めることによって,死者の肉体部分に関する処理は完了するのに対し,火葬では“遺体の焼却”“遺体の急速な骨化”という悲惨な処理・作業が随伴することになる。古来,火葬の方法としては,庶民の間では野焼きの方法,すなわち野天に四本柱を立てて中央を少し掘りくぼめて,多量のわらと薪を置き,棺の上にも積み上げて火をつけ,長い時間をかけて焼く方法がとられた。座棺を逆さまにして焼くなど,地域によってかなり異なった方法があったと思われる。いずれにしても近親者はもちろん,火葬に立ち会った人たちは,顔を背けずには果たしがたい作業であった。そうした正視しがたい作業を少しでも避けようとして,“かまど”のような座棺用の炉が考案され,しだいに効率的な火葬炉に改造されていったものと考えられる。と同時に,そのような炉を包み込む建物も,簡単な造作のものから徐々に本格的な葬祭建築物として改良されてきたのであった。近時,地方の都市化と道路の発達に伴って火葬が常識化されてきた背後には,法的規制が大きな推進力となっていることは見逃せない。と同時に,火葬という死体処理の方法も,現在では焼骨畏敬の念すら簿らいできたこともまた否めない。全国的に重油バーナーで60〜70分間のうちに焼きあげ,さっさと拾集して帰るのが一般化してきている。
【火葬場】1948年(昭和23)5月に制定された「墓地,埋葬等に関する法律」の第2条第7項に〈この法律で火葬場とは,火葬を行うために,火葬場として都道府県知事の許可をうけた施設をいう〉と,火葬場という用語の定義を明らかにしている。要するに,火葬場とは火葬を行うための施設であり,火葬とは〈死体を葬るために,これを焼くこと〉(同条第2項)などである。平安時代以来,火葬場のことを三昧(さんまい)もしくは三昧場(さんまいば)といった。平安時代には山作所と呼んだ例もあるが,中世以降,火屋・火家・龕屋(ひや)などの呼称が普通となった。これらは荼毘所(だびしょ)とも同義語であり,ときに火葬寺などとも記されたが,龕の字を当てて龕屋と読ませた点では,多分に宗教的な意味が含まれているようである。火屋という呼び方は関西に現在も残っているが,関東では江戸時代後期に使われなくなり,その後いつとなく焼場(やきば)と変わった。近代に入ってからは火葬場と焼場が併用されて現在に及ぶが,近時“死体を焼く”というニュアンスが強い火葬場という用語を避けて,斎場という新呼称を採用するようになった地方自治体が多くなった。広島県などでは明治時代から“○○館”とか“○○苑”と呼んでいる例が多い。なお火葬のことを茶毘(だび)もしくはダビ※注1※というが,これは焚焼の意で,梵語の jhapitaに由来するものである。昭和58年度の調査では,旧村落などが保有している野焼場のような火葬施設を除くと,全国におよそ4,000もの火葬場が存在している。そのうち公営のものが過半数を占めているが,民営といわれる火葬場もかなり存在している。公営の火葬場は市町村経営のものが大部分であるが,一部に幾つかの市町村が事務組合をつくって,1カ所の火葬場を運営する形態をとっているものもある。民営の火葬場には,旧集落が保有していた簡易な火葬場が市町村に移管されず,集落の長を代表者とする個人経営として扱われている例も地方には多いが,一方では大都市の火葬場で株式会社が運営する例が幾つか見られることは注目すべきであろう。とくに東京都の区部は,都営の1カ所を除いて他の7カ所はすべて民営である。大阪市や横浜市にも民営の火葬場が若干みられる。なかには広島市のように火葬場は市が建設して保有し,火葬作業は民間に委託している例もある。民営の火葬場が主流を占める地域では,火葬場に対する自治体の意識や住民の理解に欠ける点があるようにも見受けられる。火葬場の主な業務は火葬を執行することにある。死亡届にもとづき,自治体の長が発行する火葬許可証を確認し遺体を火葬に付することにある。したがって,そこには一見,宗教性の入り込む余地はないように見えるが,火葬場はもともと浄土真宗などの寺院を中心に,寺院付属の施設として歩んできたものであった。浄土真宗で火葬が一般化されたのは,死者を火葬にし,その遺骨の一部を本山納骨するためである。1698年(元禄11)の『叢林集』巻7には〈今田舎ノ諸宗ノ人骸ヲ埋テ土ヲカキアゲタル体是ナルベシ,サレハ仏法世法共ニ万民共ニ塚ヲ設ル義マヅ勿論也,然モ当流ハ皆火葬ニテ拾骨ヲ御本廟ニ許入レ給上ハ人々ノ塚アルヘキヤウモ無シ〉とあり,本山納骨するから墓は必要ないと,墓地軽視論を展開している。江戸時代に入ると,江戸・大坂・京都などの大都市では土一升金一升の市中で広い墓地を得がたいこともあって,火葬が普及していく。江戸時代の中ごろまで,江戸市中のほとんどの寺院がその境内に,火屋とか火家と称された簡易火葬場を設置していたことは,1735年(享保2)の『続江戸砂子』に〈正保,慶安の比迄は浅草,下谷の寺院,皆境内に龕屋(ひや)ありし〉とあることによっでもうなずける。しかし火葬の臭気が周辺の住民にとってはなはだ迷惑であったことは言うまでもなく,人口密集地域の寺院はしだいに火葬場を廃止・移転することになる。江戸では下谷・浅草付近の二十数カ寺がそれぞれ火葬場を有し,そこで火葬を行っていたが,4代将軍徳川家綱が上野の寛永寺へ墓参に赴いたさい,火葬の臭気が東風にのって東叡山内に及んだので,火葬場の移転が計画され,1669年(寛文9)に千住宿南組の小塚原に1町四方(1 ha)の土地を画して除地とし,各寺院の火葬場をそこに移した。それに対し元禄以降の新開地で,隅田川以東の現在の江東地区に当たる地域や,南部や西部の現在の山手地区に当たる地域では,幕末に至るまで寺院で火葬場を保有していたものも多い。そうしたなかで深川の霊厳寺や浄心寺は,併設した火葬場で名高い寺院であり,また砂村新田の極楽寺・上落合村の法界寺・桐ケ谷村の霊厳寺などは,寺院としてよりも火葬場で著名となり,しだいに火葬場を専業としていった模様である。幕末になると江戸の火葬場は,小塚原火葬場・深川霊厳寺・砂村新田極楽寺・芝増上寺今里村下屋敷・代々木村狼谷・上落合村法界寺・桐ケ谷村霊厳寺の7カ所と,幾つかの寺院内の火葬場であったと推察できる。このうち小塚原火葬場・上落合村法界寺・代々木村狼谷・桐ケ村谷村霊厳寺の火葬場が,その後紆余曲折(うよきょくせつ)を経て,それぞれ現在の東京博善株式会社が経営する町屋葬祭場・落合葬祭場・代々木八幡葬祭場・桐ケ谷葬祭場へと発展してきているのである。大坂には,江戸時代に大坂七墓というのがあった。いずれも火葬場を中心とする墓地で,北から長柄・梅田・南浜・蒲生・小橋(おばせ)・千日(せんにち)・飛田となっていたようである。このうちの長柄墓地の火葬場が,現在の大阪市北斎場のもとをなしている。わが国で近代的火葬場の始まりとされるのは京都市の花山(かざん)火葬場(現・京都市中央斎場)で,1878年(明治11)に東・西両本願寺経営の火葬場として設立されたものであった。大正時代に入ると,大きな市や町では,それまであった民営の火葬場を引き継いだり野焼場であった場所などを利用して,公営で整備された施設をもつ火葬場を建設する例が多くなった。1916年(大正5)に建てられた和歌山市営火葬場は,当時のままの建造物を一部修築・補強・改良はしているが,ほとんどそのままの形でごく近年まで使用していた珍しい例である。大正末期から昭和初期にかけて,各地の市や町で,寺院風建築の公設の火葬場が建てられた。第二次世界大戦後は日本国憲法によって,公設の建造物にこのような寺院風建築は許されなくなったことは言うまでもないが,戦前に建てられたものの中には今日もなお使用されているものが少なからず存在している。しかしそれらの多くは木造建築であるために,早晩姿を消す運命にある。現在も操業中の最も典型的な寺院風建築の景観をもつ火葬場として,神奈川県の三浦市火葬場(昭和9建設)と大阪府の茨木市立斎場(昭和10年建設)をあげることができよう。火葬場の寺院風建築の良否はともかく,宮型霊枢自動車とともに,火葬場が仏教と深くかかわっていた時期の名残りといえよう。わが国の火葬場建築に新風を送り込んだのは,名古屋市営八事(やごと)火葬場(現・名古屋市立八事斎場)であった。寺院風デザインが席巻している最中に,30基の火葬炉をもつ円型火葬場を,1935年(昭和10)5月に完工させている。東京で1937年(昭和12)に開場された東京市営(当時)瑞江(みずえ)葬儀所とともに,戦前期の数少ない鉄筋コンクリート造りの火葬場であった。第二次世界大戦後は「墓地・埋葬等に関する法律」により,都道府県知事の許可を受け,火葬場を設置・経営する地方自治体が激増した。これは都市化と衛生思想の普及,さらに法律的に土葬の不適地とされる地域の拡大などと無縁ではない。しかし,これらの戦後まもなくの資材不足の時期に建てられた木造建築や簡易耐火造りの火葬場は,戦前に建てられた寺院風建築の火葬場とともに,昭和30年代後半の高度経済成長期に入ったころには,木造の建物自体の傷みが進行していた。そのうえ火葬炉の老朽化も著しく,れんがの巻き替えをするが傷みは激しく,燃料の使用量やロスも多く,コンクリート製の煙突からは黒煙が出る。ばい煙・悪臭・騒音などの劣悪な環境のなかで操業を続け,やがて公害問題が指摘されるようになった。一方,会葬者は年を追って多くなるが,駐車場や待合室も十分なスペースがない。しかも往時は町はずれにあったが,周辺の開発によって住宅地の真っただ中になってしまい,住民とのトラブルが起こる例も多くなってきた。そうしたなかで,一部の地方自治体では無煙・無臭・無塵・低騒音の無公害炉で,焼却時間が短く,燃料が節約でき,公害防止,火葬場周辺住民への心理面をも含む迷惑を避けるための努力が続けられていた。完全酸化による脱煙・脱臭をめざし,完全燃焼のため再燃焼サイクロンを設置する。燃焼管理は葬祭技士の勘と経験に任せていたのを測定機器を併用するなど,火葬炉の運転管理に科学的な技術導入を図るなどである。待合棟なども会葬者の気持ちを和らげるように設計し,場内の緑化・植生など環境整備も重視する。そして何よりも,人間の死・別れの場としての優れた空間と環境を創造する営為が必要だと考えられるに至ったのである。そうした努力を最初に成就し,従来の火葬場のイメージを完全に一掃した新しい建築空間と設備を有した火葬場を建設したのは神戸市で,1974年(昭和49)3月に完工の神戸市立鵯越(ひよどりごえ)斎場である。続いて,1979年(昭和54)5月完工の宮城県の気仙沼市斎場,1980年(昭和55)2月完工の横浜市戸塚斎場,同年3月完工の岡山県の倉敷市中央斎場,1981年(昭和56)3月完工の京都市中央斎場,1982年(昭和57)9月完工の群馬県の桐生市斎場などが,大都市・地方都市を問わず,理想的な“新しい火葬場”である。ちなみに,現在,公営の火葬場がその地域の住民の火葬料金を無料かもしくはきわめて低額で抑えているのに対し,民営の火葬場は高額の火葬料金を取らざるを得ず,火葬炉に特等・1等・並等などの区別を設定しているものもある。利用者側からは差別ではないかとの指摘もあるが,経営上やむを得ない処置なのであろう。
【葬制の民俗】仏教の宗派によって異同はあるが,土葬・火葬のいずれにしても納棺後導師である僧の授戒があって戒名(浄土真宗では法名)がつけられ,浄土真宗を除いては導師から引導が渡される。続経により回向されて埋葬されるが,火葬の場合は遺骨は77日の法会をすませて墓地に納められる。葬列は死者を埋葬地(または火葬場)へ送るための行列であり,葬制のうちで最も重要な行事であるが,大正期に霊柩自動車が出現してから都市部ではこれが廃される傾向が強くなり,その結果,葬制の体系がまったく壊われてしまった。葬制は一般に死者の属する宗教の儀礼体系から規制され,わが国では仏教のそれからの規制が強いが,民衆生活レベルでは民間信仰や基層的な習俗慣習に密着している。例えば葬送の配役や日取りの決定,入棺・出棺・埋葬などの過程において血縁・地縁のいずれもが,死を忌むことからのタブーにそれぞれの行為を制約されることが多い。葬制に関与する職業として仏教の僧職のほか,葬儀屋の存在も無視できない。葬儀屋の出現は明治20年代とされているが,それによって都市部ではそれまで親族や村落共同体によって互助的に行われていた葬儀が,葬儀屋に委ねられるようになった。葬儀屋は仏式・神式・キリスト教式・無宗教式,また自宅での葬儀・寺院や教会での葬儀・葬斎場での社葬や団体葬などにかかわらず,葬儀を行う者の役所に対する手続きの代行に始まり,葬儀用の設備・葬具・供物一式,さらに花環・生花・貸衣裳・霊柩自動車の用意をし,遺体の搬送から納棺・出棺から火葬場の手続きまで一切を行い,現代におけるわが国の葬制を取り仕切り重宝がられているが,近年はこの業界でも大資本による系列化が進んでいる。
〔参考文献〕圭室諦成『葬式仏教』1963,大法輪閣
井之口章次『日本の葬式』1977,筑摩書房
浅香勝輔・八木沢壮一『火葬場』1983,大明堂
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