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●宗性 そうしょう

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 藤原隆憲を父にもって生まれ,藤原氏出身で1214年(建保2)に13歳で東大寺に入寺した。そののち東大寺中院や,尊勝院のあいだを往復して『倶舎論』の研究を始め,寺内の倶舎三十講などに参加し尊勝院の住侶となった。主として初めは中院にいて華厳宗の論義などについて勉強していたが,その因明・唯識などの研鑽については,興福寺の覚憲の流れをくむ光明院系・勝願院系に負うところが大きかった。また貞慶の著した『明本抄』にもとづいて因明学を学び,自分もまた『倶舎論』を中心にその註解の作成に努力して『倶舎論明思抄』を著した。1220年(承久2)ごろより,宗性が京都の法勝寺御八講の聴衆として招かれるようになってからは天台教学に対する研究を志して,叡山の智円との親交を深めた。この時『天台論義抄』などを抄している。また1221年(承久3)には『最勝講問答記』を写し,貴族出身僧侶として,また学侶として僧綱への昇進の道を計った。そしてのち宗性は尊勝院主として師弁暁・道性の後をついで華厳宗(当時東大寺は八宗兼学であった)の中心人物となるための努力を怠らなかった。そのためには僧綱昇進への唯一の道である三会講師を経なければならなかったので,ここにその必要から1227年(安貞1)初めより内明・因明の諸論義を集め研究し,翌1228年(安貞2)には次の維摩会の講師へのため維摩会の問答記を多く写している。この因明研究と貞慶一門の覚遍との親交はますます深められ,笠置山寺へ歩を進め,ここが彼の自著編纂整理の場所となった。この年以後この地で『華厳宗別章疏』の要文を写し,『梵網経』を読み,貞慶の戒律に対する業績を追慕した。それとともに貞慶の信仰に影響され彼が貴族として持っていた阿弥陀信仰を変えて弥勒信仰に入り,1232年(貞永1)には『観世音菩薩感応抄』を抄し,『弥勒来時経』を読み,同寺福城院では清涼大師の『演義抄』(義天版,当時のものが現存)を読み朱を入れ,ついに1233年(天福1)には有名な弥勒如来感応の要文を集め,1235年(嘉禎1)には清書して『弥勒如来感応抄』となした。この間中院に帰ってからよりも信仰的傾向の強い感応抄と題する著作がこの期間多く表れ,また一方阿弥陀を礼讃する『西方要決要文抄』を初め,『華厳経文殊師利菩薩感応要文抄』『華厳経普賢菩薩感応要文抄』を抄している。そして『弥勒如来感応抄』の作成に刺激されて,仏教の歴史的研究に意を注ぐこととなった。著作中の『名僧伝指示抄』『名僧伝要文抄』『法苑珠林指示抄』『大宋高僧伝要文抄』『日本高僧伝要文抄』などは一連のこの傾向の表れであった。1246年(寛元4)尊勝院院生となり,1260年(文応1)7月20日東大寺別当職に任ぜられ,かねての宿願を果たすことが出来た。ついで最勝講證義者となり,1261年(弘長1)には後嵯峨上皇の東大寺への御幸あり,その光栄に浴した。そとでは山城乙訓郡海印寺を尊勝院の末寺とし,国語学的に重要な『文華風月至要抄』を著し,文学への道を歩み,文永の乱における『蒙古国牒状』を書写し,『調伏異朝怨敵抄』と称した。また1264年(文永1)には後嵯峨上皇が東大寺にて御受戒あり,宗性はこのときの磨(こんま)師を務めた。この功労によりさらに権僧正に任ぜられた。文永12年には知足院に至りまた華厳教学の集成が行われ,『地持論要文抄』『華厳祖師伝』『華厳宗香薫抄』などが抄出され,その後はひたすら編著の整理に尽くし新しい動きは見られないままに1278年(弘安1)6月8日77歳で入寂した。

 以上,要するに宗性の生涯は旧仏教の復興に対する新しい教学興隆と,その歴史的探究に尽くされ,わが国仏教史上にその自筆本514点を数え重要な足跡を残している。現存する宗性の編著の書目のなかを教学的に分けると華厳(54),法華(49),天台(47),法相(17),律(6),浄土(1)などに及び,鎌倉時代における東大寺の学侶(とくに貴族出身者の代表として)の仏教研究の方向を裏づけることが出来る。また教義に属さないうちには,わが国の仮名の発達を知る上に重要な『類聚名義抄』からの引用が随所に見られるなどのことは,宗性の一つの著書が多くの学問によって成り立っていたことを示すものである。

〔参考文献〕平岡定海『東大寺宗性上人之研究並史料』上中下,1958,学振

平岡定海『東大寺辞典』1980,東京堂出版

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