●創価学会 そうかがっかい
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創価学会は法華系新宗教の宗教団体であり,現在の日本最大の宗教団体である。【創価教育学会とその活動】1930年(昭和5),牧口常三郎と戸田城聖が設立した初等教育の研究団体の創価教育学会が会の始まりである。会長の牧口は「創価教育学」を刊行して京浜地域の小学校教員を組織して,実験教育を試みた。創価教育の理論は価値創造の哲学,価値論である。日中戦争から太平洋戦争の時期に,価値論の哲学と日蓮正宗の教学を結びつけ,法華経(ほけきょう)の功徳と謗法の罰を生活のなかで見出し,罰論を中心とする折伏(しゃくぶく)を展開した。この性格変化によって,会員も小学校教員に加え,商店主,中小企業者,サラリーマン,家庭婦人,学生へと広がり,1937年に60人にすぎなかった会員が1942年には1,500人に達した。1940年,政府は宗教統制を強化する一方で,伊勢神宮の崇敬を全国民に強制し,各宗教に神宮の神礼を祭るよう強制したが,法華経を正法とし,ほかのいっさいの宗教を邪教とした学会は,牧口・戸田以下,結束して神社奉斎を拒否した。これによって1943年,当会は治安維持法違反,神社に対する不敬罪を理由として,牧口・戸田を初め幹部21人が検挙され,牧口は裁判中に獄死した。
【創価学会の再建】敗戦直前に保釈された戸田は,法華教と「日蓮大聖人御書」に依拠しつつ,獄中の宗教体験を体系化した十界の生命論を中心に,大御本尊の功徳を説くという講義の構想を固め,敗戦翌年から法華経の講義を始め,創価教育学会を創価学会の名で再建を始めた。そして理事長として学会を指導するかたわら,印刷・出版・小口金融などの事業に進出した。この期の戸田の法華経講義の聴講者のなかに,第3代会長となった池田大作がいた。戸田は事業に力を入れるかたわら,事業仲間を折伏するとともに,青少年の入信者の獲得につとめ,その教育と訓練にあたった。ところが,事業の方は1950年ごろからうまくいかず破産状態となった。こうした大難のなかで2度目の宗教的体験を得て,救国救世の確信をつかんだという。戸田は事業から手を引き,創価学会の指導者として専念するという決意を表明して,1951年,学会の第2代会長に就任した。戸田は会長就任前から支部の再編成を実施し,支部長には実力のある者を抜擢した。また旬刊の機関紙「聖教新聞」を創刊した。
【組織の再編成と政治進出】戸田は日蓮正宗との一体化,独自の教学の確立,組織の再編成の3つに着手した。組織の上では従来の諸義部を教学部に発展し,教授・助教授・講師・助師の制度をなし,任用試験によって昇進せしめた。1951年には「折伏教典」を刊行し,折伏や他宗教攻撃に利用できるように編纂された。1952年は日蓮宗の立宗700年にあたり,大石寺での慶祝大法会には4,000人の信者が参加し,1954年からは全国地方折伏が始まり,20都市に250人が派遣された。同年11月本部に文化部を新設し,政治進出のための指導機関としての役割を担った。学会は1955年に初めて地方選挙に候補者を立て,翌年の参議院選挙では全国区2・地方区1の議席を占めて,国会進出に成功した。さらに1959年には参議院で6議席を獲得し,全国区の得票248万票に達した。
【池田大作の会長就任以後】1960年青年部出身の池田大作が第3代会長に就任した。学会は政界浄化のため政党色のない分野に代表を送るとして政策をかかげていなかったが,1961年公明政治連盟を結成し政策をかかげ,1962年に参議院選挙で9人全員が当選し,国会で15議席を占めた。1964年に池田は衆議院への進出と宗教政党の結成を表明して公明党を結成した。創価学会は1960年代には推定200万人の信者をもつ大教団となった。1967年の総選挙には公明党は衆議院で25議席を獲得した。1969年に創価学会を批判した書物が現れ,世論の批判を浴び,1970年,池田は公明党との政教分離を表明し,公明党では指導的幹部を学会役員からはずした。
〔参考文献〕村上重良『日本宗教事典』1978,講談社