●漕運 そううん
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中国史上,国家の管理下に行われた大規模な水運。多く,地方の穀物を,内陸の水路をへて首都に運ぶ場合をいう。中国の首都は多数の人口を擁する巨大な消費都市であったから,その需要を満たすために,遠隔の地からも物資を輸送する必要があった。その1手段が漕運であり,王朝の版図が広い場合には,重大な問題となったのである。救荒物資や軍需物資の水運は早くから行われていたが,恒常的な漕運が始まったのは前漢の時であり,華北平原の物資を,陝西盆地に築かれた首都長安に運んだ。最初は黄河,渭水を経由したが,武帝の時に渭水に代わる運河が開削されて輸送量が激増し,さらに哀帝の時には黄河,淮河間の水路が開かれた。後漢は長安よりはるかに水運の便がよい黄河沿いの碓陽(今の洛陽)を都とし,ここを中心として水路網を整備した。つづく魏晋南北朝の分裂時代に入ると,魏晋代に南北中国を結ぶ水路が開かれたことはあるが,大規模な漕運はほとんど見られない。ただ,長江流域の開発が進み,生産力が高まっていったことが注目される。長安を都とし,南朝を滅した隋は,煬帝の時に南北中国を結ぶ長大な水路,すなわち大運河を開いた。これは,洛陽の東方で黄河から分岐し,北はタクグン※注1※(今の北京)に,南は淮河,長江を横断して余杭にいたるもので,南北朝統一の象徴的事業であり,これ以後,長江流域の物資を大運河によって北中国に運ぶことが漕運の常態となる。短命な隋に代わった唐は,首都も大運河も隋のものを継承した。8世紀に入ると,中央の官吏が激増し,また府兵制が崩れて募兵を雇うこととなったために,漕運の輸送力を強化する必要が生じ,734年(開元22)から裴耀卿が,安史の乱の混乱の後,763年(宝応2)から劉晏が,それぞれ改革を行った。裴は,従来の直達法(水深の異なる各水路を1つの船で直通する御法).転般法(水路の接点に倉を設け,各水路に専用の船でリレー式に運ぶ方法)に改め,また長安,洛陽問の難所,三門峡の輸送力を強めた。劉はこれを継承し,さらに当時開始された塩専売の利によって,従来農民の徭役であったのを改め,全線を政府の手で運んだ。五代諸王朝の多くは,運河の結節点たるベンシュウ※注2※(開封)を都としたが,版図が狭く,大規模な漕運は見られない。やはり開封を都とした北宋は,最初唐に習って転般法を採用し,発運使を置いて全体を統轄させたが,のち党争がおこると直達法も交え用いられた。宋代は商業の発達した時代であり,国初には徭役や兵士の労働によった漕運も,しだいに民間の商船を雇って行うようになった。なお,遼,金,南宋では,大規模な漕運は見られない。
元の都は大都(今の北京),隋代のタクグン※注1※の地で,大運河の北端にあたる。はるか長江下流域の物資を運ぶため,まず旧来の大運河が整備されたが,西に大きく迂回するため輸送力に乏しかった。そこで東寄りに新ルートの大運河を開削したが,水深を保てず失敗し,結局海上輸送を採用した。明は,永楽帝の時に南京から北京に遷都し,元と同様海運を行ったが,海難事故や倭寇の襲撃に悩み,元が聞いた大運河を整備して利用するようになった。漕運法も工夫され,はじめは支運法(大運河沿いの要地に倉を設け,農民がそこへ搬入し,漕運にあたる兵,すなわち運軍が各倉間をリレー式に運ぶ)により,のち兌運法(農民は各地の運糧衛所の倉に搬入し,あとは運軍が北京へ直送する)と改兌法(運軍が農民のもとに出向いて集荷する)とが併用された。やはり北京に都した清は,基本的に明制を継承しつつ,北京での受入機関である座糧庁を整備し,農民と運軍とが直接接触せぬよう州県官に仲介させる(官収官兌法)など,いくつかの改善を行った。しかし,輸送中に関係官史に搾取され,事故の賠償責任をも負わされた運軍の生活は苦しく,逃亡する者,農民や州県官から搾取する者,私有物資(ヤミ塩など)を運んで私利を図る者などが出,19世紀に入って黄河の氾濫が続くなど,種々の弊害のため,大運河の機能は低下し,19世紀末には海運と鉄道による漕運が行われた。そして1911年(宣統3),漕糧はすべて銀納することとなって漕運制度は終焉を迎え,翌年南北中国を結ぶ津浦鉄道が全通して大運河の歴史的使命も終った。
〔参考文献〕星斌夫『大運河−中国の漕運−』1971,近藤出版社
佐久間吉也『魏晋南北朝水利史研究』1980,開明書院
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