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●ソヴィエト連邦共産党 ソヴィエトれんぽうきょうさんとう

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 ソ連で唯一の政党で,ソ連のあらゆる内外政策を実質的に決定している。組織母体は1898年結成のロシア社会民主労働党で,その一分派のボルシェビキ派を直接の前身とする。

【結党前史】ロシアにおけるマルクス主義労働運動は,1870年代の「南部ロシア労働者同盟」(1878)に始まり,1883年にジュネーブでプレハーノフのもとに最初のロシアマルクス主義グループ「労働者の解放」がつくられた。ロシアでの最初の労働者政党は,1895年レーニンにより創設されたペテルブルグ「労働者解放闘争同盟」である。1898年3月に召集されたロシア社会民主労働党第1回大会は,マルクス主義政党の結成を宣言した。しかし,1903年の第2回党大会で党綱領と組織問題をめぐってボルシェヴィキ(「多数派」。実質は少数)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂。レーニンに指導された前者は,強力な職業的革命家集団に指導された中央集権的な非合法革命党の建設を主張。1917年の二月革命後党は合法化され,同党の名称はロシア社会民主労働党(ボルシェヴィキ)となる。

【党名改称と社会主義建設】1918年第7同党大会でロシア共産党(ボルシェヴィキ)と改称。すでにマルクス主義とは事実上無縁になっていたヨーロッパの社会民主主義勢力と自己を区別するためであった。また同大会はブレスト=リトフスク講和批准支持を決定。

 それに反対する左翼エスエル(社会革命党左派)と対立,ソヴィエト政府から離脱し,以降共産党の一党支配が続くことになる。その後,内戦の激化と諸列強による干渉戦争の開始により,党指導部は戦時共産主義と呼ばれる厳格な統制経済を導入。内戦終了後の第10回党大会(1921年3月8〜16日)で国民経済の復興をめざした新経済政策(ネップ)が採択されるとともに,分派禁止決議が出され,のちの党内闘争のあり方に大きな問題を残す。1922年,病気のためレーニンは事実上政治の舞台から退き,党内闘争が浮上する。

【スターリン体制の確立】1924年1月のレーニンの死後,レーニン記念入党キャンペーンで新たに約24万人が入党し(この数字は1917年8月当時の党員総数に匹敵),党員は飛躍的に増加した。すなわち1905年初めに8,400人であった党員は,1924年5月に約73万6,000人に,党員候補は12万7,000人となった。1925年,第14回党大会で党名を全連邦共産党(ボルシェヴィキ)に変える。その後大規模な粛清があったにもかかわらず党勢は拡大し,第16回党大会(1930年6月26日〜7月13日)にはほぼ200万人。同時に書記局を中心とする党行政機構は肥大し,1919年には30人の活動家で開始された党書記局は,1927年には2万人を超える党務専従者を擁するまでになった。こうした党の官僚制化の過程で,書記局を支配していたスターリンが,1920年代末までに左派のトロツキー派と右派のブハーリン派を党指導部から排除し党内闘争に勝利。党大会は形骸化され,第14回大会を最後に数年ごとにしか開かれなくなる。党内闘争の勝利後,スターリンは「上からの革命」を展開。これは経済的には農業集団化と5カ年計画を含む工業化であり,政治的には党機関による国家機関の支配と書記長を頂点とする党行政機構への権力集中の進行であった。対外的にはソ連防衛を自己目的化した外交政策を推進,世界各国の共産党指導部に対する統制を強めた。とくに第二次世界大戦後,軍事力を背景にして東欧を強行的に“社会主義”化,影響力を一挙に拡大した。

【スターリン以後】1952年3月にスターリンが死ぬ。同年の第19回党大会は党名を現在の名称に変えるとともに集団指導制を確認。その後フルシチョフが1956年の第20回党大会でスターリン批判の秘密報告を行い,一定の非スターリン化措置が採られたものの,1964年のフルシチョフ失脚以降成立したブレジネフ体制下では,党支配はむしろ強められた。1981年現在,党員数1,748万人。