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【第二次世界大戦期】ネップ期におけるソ連の外交は,いわば人民外交から国家外交への転換であり,ソ連の国際社会への復帰の過程であった。その場合,反ヴェルサイユ体制,反ロカルノ体制を柱に二国間の個別安全保障政策を展開してきた。しかし,産業五カ年計画期に入って,日本・ドイツの反共陣営が台頭するなか,1933年,アメリカとの外交関係を確立し,1934年9月には従来敵視してきた国際連盟に加入して,大きく安全保障政策を転換した。それはドイツをも含んだ集団安全保障体制の確立であり,1934年のいわゆる東方ロカルノ案として具体的に提起された。しかし,この案はドイツの拒否するところとなり,1935年5月のソ連−フランス,ソ連-チェコスロヴァキア間の相互援助条約調印だけに終わった。以後,ソ連はイギリス-フランスに接近,ドイツの侵略を抑えようとするが,リトヴィノフ外相のこの親イギリス・フランス策は容易に成功せず,1938年9月,イギリスとフランスはミュンヘンでドイツの要求を受け入れた。ここに1939年5月,リトヴィノフに代わってモロトフが外相となり,8月23日,独ソ不可侵条約を締結,従来の対ドイツ政策を一転した。この条約によって東部国境の安全を確保したドイツは,9月3日イギリス,フランスと開戦し第二次世界大戦が始まった。ソ連はドイツのポーランド侵入と呼応,いわゆる「カーゾン線」までの東ポーランドを占領,エストニア,ラトヴィア,リトアニアのバルト三国を事実上の保護国とし,ついで11月〜1940年3月フィンランドと戦い,そのカレリア地方を獲得,1940年6月,ルーマニアからベッサラビアと北ブコヴィナを割譲させ,8月,バルト三国を併合して,ソ連勢力範囲の拡大強化をはかった。1941年4月,ソ連は日本と中立条約を結び,東方の安全を確保するとともに,5月,スターリンは首相となり,一連の国内緊急措置(労働強化,軍需品の通過禁止,国内旅行の制限など)をとり,戦時体制を確立した。第3次五カ年計画による戦力の増強も着々と行われつつあった。ときに,1941年6月22日,ドイツ軍がソ連領内に侵入を開始し,開戦3カ月のうちにヨーロッパ-ロシアの過半を占領,レニングラードとモスクワの門外に迫る勢いをみせた。しかし,南方戦線は別として,ドイツ軍は北方および中央戦線で強力な抵抗にあい,ソ連を屈服させ得なかった。ソ連では戦争は大祖国戦争と呼ばれ,愛国心がかき立てられた。1942年春以来のドイツ軍の南方戦線における勝利も,スターリングラードの攻防戦で,1943年1月のソ連軍の勝利により水泡に帰し,攻守そのところをかえた。7月のクールスクの戦いののちソ連軍は反撃に転じ,1944年末までに,ソ連軍はドイツ軍136個師団を壊滅,1,100kmの前進を行い,東プロシアに侵入した。こうして1945年4月,ベルリンを攻略,5月8日ドイツを無条件降伏させた。一方,アジアでは,1944年(昭和19)8月9日,ソ連は日本に宣戦,満州に殺到し,8月15日の日本の無条件降伏となったが,その後,ソ連軍は満州全般・南樺太・千島を占領,9月2日,日本は降伏文書に調印し,さしもの第二次世界大戦も終わりを告げた。

【戦後のソ連】大戦の終結とともに,ソ連の直面した課題は戦争の大きな破壊より立ち直ることであった。2,000万人にのぼる人命を失い,国土・経済はまったく破壊された。ここに政府は1946年,その復興のために第4次五カ年計画を実施した。その結果,1949年までに工業が,1948年までに農業がそれぞれ戦前の水準に達した。これには占領地からの賠償物資・戦利品・抑留者の労働力も大きな役割を果たした。ソ連はアメリカに対抗する経済力・軍事力をもつことを目標とし,その後数次の五カ年計画を実施して,一大工業国となったが,農業部門では1948年に始まった国土総合開発計画自然改造計画)や大規模農場の建設にもかかわらず,総じて大きな成果をあげ得なかった。軍事力では1953年8月の水素爆弾の実験成功や,1957年11月の人類初の人工衛星の打上げ成功に象徴されるような恐るべき力をもつにいたった。こうした建設事業の途上,1953年3月にスターリンが死に,党書記のマレンコフが首相となり「集団指導」が強調されたが,事実上は新たに党書記となったフルシチョフが,1964年10月から82年11月まではブレジネフが,ソ連を指導した。この間,1956年2月の第20回党大会において,フルシチョフはスターリン批判を行い,その独裁・個人崇拝の助長などを非難,いわゆる自由化の名のもとに,党・官僚・軍部の三大権力を一身に集めていたスターリン政治から,党による一本支配の確立をめざした。しかし,フルシチョフもその農業政策の失敗や,官僚・軍部の力の前にブレジネフ政権に道を譲った。さて,第二次世界大戦によってソ連はその領土を拡大し,膨大な勢力圏を築き,アメリカを先頭とする自由主義陣営と対立した。1948年のベルリン封鎖,1950〜53年の朝鮮戦争などは,そうした「冷たい戦争」の一局面であった。スターリンの死後,「雪どけ」の時代が一時到来したかにみえたが,ブレジネフ時代に入ると,両者の対立は核兵器の威力を背景に深刻の度を加えた。また,1949年の中国革命成就以来,ソ連の強力な同盟国であった中国も,1960年ソ連批判を行い,中ソ論争が激化するなか,1964年2月,中ソは完全な断絶関係に入るなど,東欧圏諸国の自主性回復問題と相まって,ソ連をめぐる国際情勢は複雑性を加えている。

【ソ連の宗教】マルクス−レーニン主義の宗教否定・科学的無神論の立場に立つソ連においても,信教の自由は憲法で認められている。しかしながら,この信教の自由は,宗教を信ずる自由と信じない自由,無神論的(スターリン憲法第124条では反宗教的)宣伝を行う自由である(1977年憲法第52条)。1917年のロシア革命以来,ソヴィエト政府は公式的には一貫して反宗教的立場をとってきた。1918年1月23日の「教会と国家,学校と教会の分離に関する布告」以来,その方向に変わりはない。しかし,宗教に対する戦いにおける戦術は,そのときどきの状況によって変化した。1918年憲法では僧侶は公民権を剥奪され,国内戦期および1920年代を通じて宗教弾圧は苛酷をきわめた。しかし,弾圧による宗教撲滅政策の失敗が明らかになると,1930年3月14日付でその誤膠を認め,その後は民間の自発的な反宗教活動に重きを置くようになる。その運動の中心となったのは,1925年に創設された「戦闘的無神論者同盟」で,1932年にはその同盟員は500万人に達した。1930年代の半ば,文化革命の中で愛国心の復活がなされ,1936年のスターリン憲法僧侶の公民権も復活されたが,独ソ戦争勃発とともに宗教も動員され,政府と宗教は共闘の姿勢をとった。1943年9月には革命以来廃止同然になっていたロシア正教総主教制が復活され,1944年には神学大学と神学校も開設された。戦後しばらくは宗教に対する放任政策が続いたが,フルシチョフ時代になると再び民間による反宗教活動が活発化する。しかし,ソ連勢力圏の拡大,イスラム世界の問題の重要化などの国際環境の推移の中で,ソ連は反宗教運動を誇示し得ず,無神論的活動の自由という枠内にとどまっているのが現状である。なお,現在のソ連の宗教のおもなものには,約5,000万人の信徒をもっともいわれるロシア正教,350万人の信徒を抱えるローマカトリック教,100万人の信徒をもつ福音派ルーテル系,2,000万人の信者を有するといわれるイスラム教があるが,そのほか,ユダヤ教・ラマ教・仏教信者なども多くいる。ただし,儀礼面での宗教色脱色が次第に定着しつつあること,原野または森林を切り開いてつくられた新建設都市における宗教色が薄いこと,宗教と政府の共通項は「平和の擁護」という相言葉にあることなどが,ソ連の宗教の特徴として指摘されよう。

【ソヴィエト文学】1917年の十月革命と国内戦時代には,その混乱のなかに伝統的なロシア文化の破滅をみてとり,多くの文学者が絶望のうちに海外に亡命した。国内に残った作家たちには,十月革命を扱った叙事詩『十二』を書いた象徴派の詩人ブローク,十月革命を〈私の革命〉と歓迎したマヤコフスキーゴーリキーエセーニンベードヌイパステルナークなどがあった。総じて,結成されてまもない「プロレトクト」(機関紙『プロレタリア文学』の略称)派の詩人・文化人が盛んに活躍した。彼らは労働者以外の文化活動には排他的で,ロシアの文化遺産の継承を否定した。ネップ期に入ると,プロレタリア作家同伴者作家農民作家と呼ばれる種々の作家が出,互いに競争しあった。文学団体としては「ラップ」(プロレタリア作家協会)や,「レフ」(芸術左翼戦線),非政治的な「セラピオン兄弟」などが知られている。この期の有名な作品は,アレクセイ=トルストイの『苦悩のなかを行く』,イヴァーノフの『装甲列車』,トロツキーの『文学と革命』,フルマノフの『チャパーエフ』,グラトコフの『セメント』,バーベリの『騎兵隊』,ファデーエフの『壊滅』,ショーロホフの『静かなドン』,などである。五カ年計画時代に入ると文学も政府によって計画的・統一的に指導されるようになる。1922年6月創設されたグラヴリット(文学出版管理局)は検閲機関としての機能を強くし,党イデオロギー委員会による統制も強化された。1932年4月23日,党中央委員会は「文学・芸術団体の改組について」の決定を出し,1934年にはすべての文学団体がソヴィエト作家同盟に統一され,社会主義リアリズムがソヴィエト文学の基本的創作方法として確認された。1953年のスターリンの死までのあいだ,ショーロホフの『開かれた処女地』,オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』,エレンブルグの『第二の日』,ファデーエフの『若き親衛隊』などが出たが,1937〜38年の粛清の嵐に伴う激しい統制もあり,現実を単純化して描く無葛藤理論が横行した。フルシチョフ時代,文学界にも雪どけが訪れ,エレンブルグの『雪どけ』,ドゥジンツェフの『パンのみによるにあらず』,パステルナークの『ドクトル=ジバゴ』などが現れるが,雪どけにも限界があり,すでに1958年パステルナークノーベル文学賞を辞退せざるを得ず,1962年のエフトゥシェンコ『スターリンの後継者たち』,ソルジェニツイン『イワン=デニソヴィチの一日』の出現で,政府は思想統制を強化,ブレジネフ時代にはそれが一層激しくなった。ソ連で出版できなくなった作家は,海外に出版の道を求めたが,ダニエルとシニャフスキーは,その罪で1965年逮捕され,66年有罪となった。この判決に反対した人々も強制収容所送りとなり,1973年パリで『収容所列島』を公刊したソルジェニツインも,1974年国外追放となった。『創造の七日間』のマクシモフ作家同盟を除名され,国外に出て雑誌『コンチネント』を創刊した。国内ではスターリン再評価の風潮も現れ始めた。

【ソヴィェト音楽・美術】ソヴィエト音楽界にあっても,革命によって多くの音楽家が海外に亡命した。ピアノ演奏家としても有名なラフマニノフ,歌手のシャリャーピン,作曲家のプロコーフィエフらがそれである。もっともプロコーフィエフは1933年帰国して,ソヴィェト音楽界で活躍した。国内では1930年代にいたるまで,「プロレタリア音楽協会」や超現代的なモダニズムを追求した「現代音楽家協会」の人々が活躍したが,1932年の党中央委員会による「文学・芸術団体の改組について」の布告以後,プロレタリア音楽協会の排他性が退けられ,高度な技術的伝統・民族的伝統を大切にする風潮がおこり,帰国したプロコーフィエフ,ショスタコヴィチハチャトリアンカバレフスキーらが相ついで名作を発表した。政治との結びつきの強い文学とは異なり,音楽界は1930年代に多くの実りをあげた。しかし,1936年,ショスタコヴィチの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(『カテリーナ=イズマイロヴァ』として1962年再演)に対する厳しい批判後,音楽界も概して保守的で無難な作風が支配的となった。1948年には,音楽界でも統一的な作曲家同盟が形成される。フルシチョフ時代に入ると,スターリン時代に追放された多くの作曲家や作品が名誉を回復し,再び音楽会は活気をとり戻して,シチェドリンチシチェンコなど注目すべき作曲家も生まれ始めた。なお演劇界では,1930年代,前衛演出家タイーロフ形式主義と批判されることなどもあったが,演劇伝統を保存育成する政策のなかで,スタニスラフスキーやネミロヴィチ=ダンチェンコの創設したモスクワ芸術座を中心に盛んなものがある。一方,ソヴィエト美術界は革命後,きわめて前衛的で急進的な実験が行われ,詩人で画家のマヤコフスキー,ゴンチャーロヴァ,タトリン,リシリシツキー,ペトロフ=ヴォトキンらが活躍した。革命当時パリにいたシャガールも一時帰国して,人民委員会の美術委員に選ばれたりした。しかし,革命の自由の空気が薄らぎ,1930年代の政府の統制がすすむなか,抽象画などは退けられ,社会主義的リアリズムのスローガンのもと,美術界は沈滞していった。フルシチョフ時代になり自由化がみえはしたが,1957年美術家同盟が結成され,1962年の「ロバの尻尾論争」で,自由化の限界は示された。

〔参考文献〕パンクラトワ,広島定吉訳『ソヴィエト同盟の歴史』,上下巻,1951,新興出版社

ラオフ,丸山修吉訳『ソヴィエト・ロシア史』1971,法政大学出版局

宇高基輔ら監訳『最新ソヴィエト百科事典』日本語版,1969,対外資料調査会

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