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ソヴィエト連邦 ソヴィエトれんぽう
正式国名 ソヴィエト社会主義共和国連邦 ユーラシア大陸の北部を占める社会主義国家。大小約200の民族を含む15の構成共和国からなる多民族国家。総面積2,240万平方kmで世界陸地の6分の1を占める。人口25,500万人(1967年)。首都は,モスクワ。
【国名の由来】「ソヴィエト」とは元来,意志・理解を意味するが,助言・忠告・会議・評議会をも意味する。このことばが〈労働者代表会議〉として用いられたのは,1905年革命のときで,この年の5〜8月,ロシア第1の繊維工業地イヴァノヴォーヴォズネセンスクで長期ストライキがおこった際,その指導機関として設けられたことに端を発する。同年10月のゼネストのときにも,10月13日,首都のペテルブルクに労働者代表ソヴィエトが設けられ,約50日間存続した。1917年二月革命では,旧国会に基礎を置く臨時国会委員会に対抗して,2月27日,ペトログラード労働者代表ソヴィエトが設けられ,3月1日,兵士もソヴィエトに組織されて労兵代表ソヴィエトが成立した。これは同日成立をみた臨時政府と併存し,二重政権状態を生み出したが,レーニンはこれに一切の権力を集中して,プロレタリア独裁の機関にしようと考え,十月革命によって臨時政府を倒し,10月25日から開かれた全ロシア第2回ソヴィエト大会で,ソヴィエト大会が国家の最高機関であると宣言した。ここにソヴィエト国家が生まれたのである。1918年1月10〜18日の全ロシア第3回ソヴィエト大会で成立したロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国にほかならない。
【国土】ソ連はヨーロッパの東の部分と,アジアの北方および中央の部分を占め,東は離島を別としてベーリング海に臨むチュコト半島(西経165度40分)から,西はポーランドとの国境カリーニングラード地区(東経19度30分)に及び,長さ11,000km,その間の時差は実に12時間に達する。南はアフガニスタンとの国境トルクメンのクシカ市南方(北緯35度6分)から,北は北極洋に面するシベリアのタイミル半島(北緯77度43分)に及び,幅約5,000kmもある。史上その例をみない広大な,しかもひとかたまりの国土をもっている点に,ソ連の強大性のゆえんの1つがある。ソ連はまた多様な自然地理学的性格をもつ。寒帯から亜熱帯まで,湿潤帯から乾燥帯までを含み,南部および南東部の国境に治って高山地帯が半円形を描き,その内側にいくつかの低地や平たい高台を抱いている。大規模な低地は西から順に,[1]ロシア平原,[2]西ベリア平原,[3]ツラン低地である。緯度的にいえば,極北の凍土帯,南下するに従い針葉樹林帯・草原帯・砂漠帯と移りかわる。ソ連はまた,北は北極洋,東はベーリング海・オホーツク海・日本海に面し,西はソ連のヨーロッパへの通路として重要な意味をもったバルト海に面して海洋国家の性格をももつが,冬季にはそのほとんどが凍結する。また,ロシア平原の南の黒海やカスピ海も歴史的に大きな意味をもってきた。なお,ロシアの歴史に深い関係のあるのは川であるが,そのおもなものは西から,バルト海に注ぐ西ドヴィナ川,黒海に注ぐドニエプル川・ドン川,カスピ海に注ぐヴォルガ川,シベリアのオビ川・エニセイ川・レナ川の諸河川である。これらの諸河川は,その支流や上流で互いに接近しており,内陸交通の動脈である。内陸交通といえば,“草原の道”もロシア史上大きな意味をもってきたが,ロシア平原の東縁に南北2,000kmにわたってのびるウラル山脈(幅20〜80km,最高点ナロード峰1,885m)は,ヨーロッパ−ロシアとアジア−ロシアの境をなすものであり,その南端とカスピ海の北とのあいだの地狭は,古くからアジア系遊牧民族の西方への進入路の役割を果たしてきた。
【ソ連の民族】ソ連の憲法第8章第70条に〈ソ連は民族の自由な自決および権利をひとしくするソヴィエト社会主義共和国の自発的結合の結果として形成された単一の連邦制多民族国家である〉とあるように,ソ連は多民族国家である。そのおもなものは,15の連邦構成共和国を形成する民族で,それを類別すれば次のごとくである。[1]スラヴ系,ロシア人・ウクライナ人・白ロシア人,[2]トルク-タタール系,ウズベク人・カザフ人・アゼルバイジャン人・キルギス人・トルクメン人,[3]バルト-フィン系,ラトヴィア人・リトアニア人・エストニア人,[4]ヤフエチド系,グルジア人・アルメニア人,[5]その他,タジク人・モルダヴィア人である。これらのうち,ソ連人口の約78%を占めるのがスラヴ系民族で,[2]のトルク−タタール系は約11%を占めている。スラヴ系の中でもロシア人(革命前の大ロシア人)は,総人口の58%を占め,最も多数の民族である。共和国を構成しない少数民族のおもだったものは,それぞれ,自治共和国(その数20)・自治州(その数8)・自治管区(その数10)を構成している。こうしたもののほかに,ソ連にはなお130種以上の民族があり,その民族数は185種にのぼると一般にいわれている。なお,ソヴィエトの最高権力機関たる最高ソヴィエトは,連邦ソヴィエトと民族ソヴィエトの2院制をとっているが,民族ソヴィエトは各連邦構成共和国から32名,各自治共和国から11名,各自治州から5名,各自治管区から1名の代議員という基準に従って選出される。ただし,この基準は各行政単位による基準であり,選出される代議員はその行政単位の主要構成民族であるとは限らず,ロシア人が多数を占めている点は注意されなければならない。
【ソ連邦構成共和国】ソ連は現在,15の共和国から構成されているが,ソ連の共和国構成の変遷は次のごとくである。十月革命によってソヴィエト国家が生まれ,それは1918年1月10〜18日の全ロシア第3回ソヴィエト大会で,ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国と名づけられたが,戦時共産主義時代には,これにならって各地に共和国が生まれた。1917年12月25日成立のウクライナ共和国,1918年1月1日成立の白ロシア共和国,1920年4月28日成立のアゼルバイジャン共和国,1920年11月29日成立のアルメニア共和国,1921年2月25日成立のグルジア共和国である。ザカフカースにできた3つの共和国は,1922年3月12日になって合同し,ザカフカース連邦共和国を形成した。1922年12月30日,ロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカースの4つの共和国は,より密接な連合の必要から連邦形成の共同宣言を出した。ソ連邦の成立である。1924年10月27日,中央アジアにウズベクとトルクメンの2つの共和国ができ,ソ連邦に編入され,1929年12月5日タジク共和国が同じく中央アジアにでき,連邦構成国は7つとなった。1936年12月5日,スターリン憲法の制定とともに,ザカフカース共和国は解体され,アゼルバイジャン・アルメニア・グルジア諸共和国となり,中央アジアにもカザフとキルギスの両共和国ができ,連邦構成国は11となった。1940年3月31日,ソ連−フィンランド戦争によって獲得されたフィンランドとソ連のカレリア地方を合わせ,カレロ−フィン共和国が形成され,8月に入ってルーマニアから得たべッサラビアと北ブコヴィナの地よりなるモルダヴィア共和国が同2日に,同3日にはバルト海沿岸のリトアニア,5日ラトヴィア,6日エストニアの三国が,ソ連邦加入を認められた。連邦構成国は16となったのである。なお,カレロ−フィン共和国は,1956年7月16日に同自治共和国に編成替えされ,連邦構成国15となり今日にいたっている。
【ソヴィエト国家草創期】ソ連の歴史は大別して,[1]草創期(1917年10月〜18年7月),[2]国内戦期(1918年8月〜21年3月),[3]ネップ期(1921年3月〜28年9月),[4]産業5カ年計画期(1928年10月〜39年9月),[5]第二次世界大戦期(1939年9月〜45年8月),[6]戦後期(1945年8月〜),に分かつことができるが,以下,それぞれの時期について概述しよう。1917年十月革命によって,ボリシェヴィキのソヴィエト政権が樹立されたが,革命政権は安泰ではなかった。反ソヴィエト派は憲法制定議会の合法性を主張,ソヴィエト政権否認の立場をとったので,1918年1月7日,ボリシェヴィキは武力をもって同議会を解散,全権力を握り,やがて一党独裁制をとった。新政府は8時間労働法の制定,運輸・貿易・銀行・大工業の国有化,教会と国家の分離,赤軍の創設などの革命政治を大胆に行うとともに,全ロシア非常委員会(チェカ)の力や,食糧切符制度の採用によって反対派を抑え,外は戦争終結に努力を払い,3月3日(以下新暦,ソヴィエト政府は2月1日,従来のロシア暦を廃し,同日を2月14日として新歴を採用した),ドイツとのあいだにブレスト=リトフスク条約を締結,同11日にはモスクワに遷都して気分を一新した。こうして,1918年7月4〜10日の第5回ソヴィエト大会で,ソヴィエト最初の憲法が採択されるにいたった。
【戦時共産主義期】ソヴィエト政府の革命政治の強行は,反対派の攻撃を呼びおこした。また,旧軍隊の将校は外国と連絡をとり,ボリシェヴィキ打倒のために義勇軍(白軍)を組織した。南ロシアでは初め,元最高総司令官のコルニロフがその指揮をとり,1918年3月末,彼が陣没してからはデニキンがこれに代わった。フィンランドではマンネルハイム将軍が指揮者であった。一方,連合国は1918年2月のソヴィエトの外債廃棄,3月のブレスト=リトフスク講和後のドイツのウクライナ占領に刺激を受け,英仏は3月9日ムルマンスクに派兵し,4月5日には,日本も市内の騒ぎを理由としてウラジヴォストークに陸戦隊を上陸させた。時に,ロシア内にあったチェコ軍団と赤軍が衝突するという事件がおこり,列国はチェコ軍救援の名目でロシアに出兵した。イギリス−フランス両軍は7月末ムルマンスクに,8月2日アルハンゲリスクに上陸,同地に組織された社会革命党の「北ロシア臨時政府」と連絡をとった。同月中旬には日米軍のシベリア出兵が開始された。この間,サマラとシベリアのオムスクに「ロシア臨時政府」がつくられ,9月には合体したが,11月コルチャク元海軍中将の「シベリア政府」に代わられた。内外からの攻撃に対し,7月,ボリシェヴィキは徴兵制による赤軍の再編成にかかり,その増強をはかるとともに,9月,一切を危機打開のために動員する戦時共産主義を実施した。すなわち,穀物売買の国家独占を行い,農民からの余剰食糧の強制徴集を定め,工業の国有化をさらに前進させ,経済を計画的に運営することにした。一方,赤軍は1918年8〜10月,ドイツ軍と提携するクラスノフ軍を破り,1919年3月から始まったシベリアのコルチャック軍の攻撃を同11月には撃破,エストニアを基地とするユデニッチ軍のペトログラード進撃を抑え,翌1920年3月には南ロシアのデニキン軍を敗退させた。これより先,1919年6月,連合国は対独講和条約を締結していたが,11月ロシアからの撤兵を決定,1920年1月には対ソ経済封鎖解除を決議し,まもなく全連合軍はロシア領から撤退した。同年4用始まったポーランド軍との戦いも10月停戦となり,デニキン軍の残党を率いたウランゲリ軍も11月には撃破された。内乱と干渉の時代は終わった。
【ネップ期】長いあいだの大戦と内乱は,ロシア経済を破局に導いていた。1920年ごろ,工業生産高は戦前の14.8%に落ち,食糧の強制徴発制は農民に不評で,耕作面積は減じ農産物の収獲も激減した。物資の不足,物価の騰貴が国民生活に重圧を加えた。1920〜21年のかんばつは飢餓状態を現出させ,ボリシェヴィキ政府反対の声もあがり始めた。ここに政府は,戦時共産主義政策を改め,若干の自由経済活動を認めて,経済を活気づかせる政策をとることにした。1921年3月,余剰穀物徴発制が廃止され現物税制が採用された。1923年には金納も併用,翌年には全て金納となった。1921年7月には国内商業の自由も認可され,12月には小企業の国有化も廃止された。ネップ採用は対外的には資本主義国との国交回復を意味した。経済復興をめざすソヴィエトには,外貨や新しい技術が必要で,列国は大市場ロシアを望んだ。戦時共産主義時代,1919年3月第3インターナショナル(コミンテルン)の創設は,両者の和解を妨げていた。しかし,ソヴィエトは1922年4月,ドイツとのあいだに結んだラッパロ条約を足掛りとして,アメリカを除く多くの諸外国の正式承認を1925年までにはとりつけた。一方,ネップ期は国家体制の強化整備期間であった。1922年12月には4つのソヴィエト社会主義共和国が連邦形成の宣言を出し,1924年1月には最初のソ連邦憲法が発布された。革命的動乱期から建設的安定期への移行のなかで,理論家肌で「永続革命論」に立ちネップに反対したトロツキーに対し,ネップを支持し実務家肌で「一国社会主義」を説くスターリンが台頭した。1924年1月のレーニンの死後,トロツキーらの反スターリン派は次々に失脚し,1927年にはスターリンの勝利が明らかとなった。さて,ネップの実施によって,国民経済は急速に回復し,1924〜25年度には農業は戦前の87%,1925年に大規模工業は75.5%まで復活した。1927年には多くの分野における生産が,ほぼ戦前の水準に達した。しかし,ネップにより都市には投機商人たるネップマンが現れ,農村には富農(クラーク)が成長した。反面,貧農化した農民は都市に集中し始め,その数200万人に達した。なんらかの改革が必要であった。そもそも,ネップは農民への譲歩であった。その意味でネップは工業化の急テンポ化を抑制していた。しかし,経済が復興しそれ以上の工業発展をはかる必要が生じたとき,ネップ的秩序は破れ,産業五カ年計画時代への準備がなされる。トロツキー追放後,工業化理論はもはや左派の綱領としてではなく,政府の方針として打ち出されつつあった。ネップ自身が農民への譲歩から,工業化への方向をとりつつあったのである。
【産業五カ年計画期】1925年12月の第14同党大会は,すでに社会主義工業化と,農業の協同組合化を基礎条件とするスターリンの一国社会主義を可決していたが,これは1927年12月の第15同党大会で具体化され,1928年10月1日から実施された。第1次五カ年計画は全国の工業化,農業の社会主義的改造,国家経済に内在する社会主義的要素の伸長強化などを目標とし,総額646億ルーブリの資本が投じられ,とくに重工業の振興に意が用いられた。結果,1933年の工業生産高は,1927〜28年の183億ルーブリに対し,432億ルーブリに達した。富農の絶滅,農業の集団化も強力にすすめられ,1932年には農民経営の61.5%がコルホーズ化され,集団化された農業の生産高も,1928年の総農業生産高の3.3%から,1932年には76.1%へと急速に拡大した。しかし,この農業の改革は従来の農業機構をまったく破壊しようとしたものであったから大きな社会的混乱を引き起こした。農業生産は思ったほど伸びず,その上1930〜31年の飢饉も加わって,飢餓状態が生じた。しかし政府は強権をもってこの農業革命を遂行した。ついで,1933年4月,政府は第2次五カ年計画を実施し,農業集団化の完成を急ぐとともに,工業面では第1次計画で拡充された基礎産業を強化し,また軽工業の振興にも意を用いた。1937年工業生産高は五カ年計画実施前の4.3倍となり,全農家の93%がコルホーズ化された。この間,勤労者の増産運動たる「スタハノフ運動」も全面的に展開された。こうして1936年末には,ソ連邦には社会主義の原理は基本的に確立されたとして,いわゆるスターリン憲法が制定され,その体制の勝利を誇った。急ピッチで強制的な工業化と農業集団化の実施のなかに,スターリンの独裁支配は発展の惰性を与えられ,1929年の世界恐慌を転機として現れ始めた戦争への脅威のなかで,新しい体制の謳歌による祖国愛の復活,指導者への讃美という形をとり,異分子の粛清という残忍な性格を与えられた。1934年5月に始まる文化革命,同年12月キーロフ暗殺事件に始まる血の粛清がそれである。レーニン時代の党幹部はスターリンを除き全員粛清され,軍部・民間にもその嵐は及んだ。1938年までに党員ではその総数の5分の1,約100万人,民間では1,000万人以上の人々が,その粛清の犠牲になったといわれている。文化革命・粛清の嵐の外では国際関係は悪化の一途をたどっていた。こうした情勢を反映して,1938年4月から実施された第3次五カ年計画は,国民所得の約半分が国防費にあてられ,国防力強化を目標としていた。この5か年計画は,1941年6月の独ソ戦争勃発によって中断されるが,その工業発展は顕著なものがあった。工業生産額は1937年の955億ルーブリから1940年の1,385億ルーブリヘと増加した。
(1/2:続く)
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