●ソヴィエト運動 ソヴィエトうんどう
AD1927
1927〜37年(民国16〜民国26)は,中国革命史の時期区分としては第2次国内革命戦争期とされ,1931年(民国20),9・18事変(満州事変)を皮切りとする日本の中国侵略が進行するなかで東北の満州地区における抗日遊撃戦争や都市部の抗日世論の高揚など,1937年(民国26),7・7事変(蘆溝橋事件)を合図とする第2次国共合作下の抗日戦争(支那事変)開始の下地も形成されるのであるが,中国共産党史の時期区分としては,土地革命期とか10年内戦期あるいはソヴィエト革命期とする方が適切である。中国共産党は国民党政権打倒をめざして紅軍を組織し,ソヴィエト(労農兵代表会議)を樹立し,ソヴィエト区域を建設しつつ土地革命を行う,というソヴィエト運動に全力を尽したのである。ソヴィエト運動の最盛期は中華ソヴィエト共和国成立(1931年11月7日)後の1932〜33年(民国21〜22)であり,ソヴィエト区域は,消長・移動はあるが,江西(別称コウ※注1※),福建(ビン※注2※),湖南(湘),湖北(鄂),河南(豫),安徽(皖),広東(粤),浙江,四川などおもに華南の省境農村地帯(および陝西,甘粛省境)に形成された。その最大のものはコウ※注1※南・ビン※注2※西を包括する中央ソヴィエト区(俗称江西ソヴィエト)であり,周辺を含めて中国工農紅軍第1方面軍が盤拠した。次が第4方面軍の盤拠する鄂豫皖区(のち川陝辺に移動)であり,湘鄂西区の第2軍団と湘コウ※注1※区の第6軍団は湘鄂川黔辺(黔は貴州)に合流し,のち第2方面軍を編成した。最盛期の紅軍は30万人,党員は都市部も含めて,30万人といわれるが,ソヴィエト運動は国民党の軍事力の前に1934〜36年(民国23〜25)に大敗し,紅軍3大主力(第1・2・4方面軍)はソヴィエト区を次々に放棄して西行・北上して陝北ソヴィエトに合流する(長征)。長征過程で党員・紅軍・根拠地の9割を失った。【中国ソヴィエト運動の特徴】中国のソヴィエト運動は,コミンテルンの指導・介入のもとに,ソヴィエト,紅軍という名称,政治委員(初め党代表)をもつ紅軍という建軍原則,ソヴィエト組織法,ソヴィエト憲法条項など多くの面でソ連の先例を取り入れたが,また中国化もした。1928年(民国17)4月成立の朱毛紅軍,つまり中国工農紅軍第4軍(軍長朱徳・党代表毛沢東)は,その後各地に成立する紅軍の模範例になる。〈紅軍は暴動が成立してソヴィエトが樹立した“翌日に”暴動部隊から編成される〉というロシア革命由来の原則が,中国共産党六全大会(1928年夏,モスクワ)決議にも明記されているとはいえ,朱・毛紅軍は,〈まず紅軍が成立し土地革命により農民の人心をつかみ,ソヴィエトが樹立される〉という順序を逆転させたのである。またコミンテルンは,1927年の敗北後の都市労働運動の挫折,農民運動の華南諸省での発展と北方諸省での停滞という“不平衡発展”を弱点とみなし(1928年2月25日付コミンテルン第九回プレナム),その克服を中国共産党に求めたが,党6全大会は省によってちがう“不平衡発展”の現実と,国民党統治の影響という統治〈不平衡〉論に立脚して,〈革命の新たな高潮のもとでの一省数省の首先勝利は可能である〉という命題をたてた。中国共産党は1930〜34年(民国19〜民国23)のあいだ〈湘鄂コウ※注1※省区における一省数省首先勝利〉のスローガンを掲げた。しかし毛沢東は1930年3月には都市・農村間“不平衡発展”を重視するにいたり,革命的農村が反革命的都市を包囲するという“農村包囲都市”路線を形成した。中央ソヴィエト区は長沙・武漢・南昌にむかう湘鄂コウ※注1※辺ではなく,それら省城を去るコウ※注1※ビン※注2※粤辺に形成されたにもかかわらず,〈一省数省首先勝利〉のスローガンが消えるのは毛沢東が党指導権を握った1935年(民国24)1月の遵義会議においてである。
【ソヴィエト運動の極“左”路線】ソヴィエト運動は,1927年8月〜28年4月の瞿秋白路線,1930年6〜9月の李立三路線,1931年1月六期四中全会以降の王明路線という3次の極“左”路線に支配され,多くの損害を受け,遵義会議でやっと是正された,とのちになって総括される(1945年4月20日中国共産党六期七中全会『若干の歴史問題にかんする決議』)。
〔参考文献〕エドガー=スノウ『中国の赤い星』筑摩叢書,1938,筑摩書房
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